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2015年7月31日

特集1 なぜ、座り込むのか おじい、おばあの決意 写真家 森住 卓

辺野古・キャンプシュワブゲート前に座り込む住民たち。前列中央が島袋さん

辺野古・キャンプシュワブゲート前に座り込む住民たち。前列中央が島袋さん

 政府が沖縄県民の反対を無視して強行している米軍基地建設を止めようと、名護市辺野古の米軍基地・キャンプシュワブと東村高江のゲート前で座り込む県民の隊列には、不自由な体を押して参加する「おじい」「おばあ」の姿が。なぜ、座り込むのか─。森住卓さんのレポートです。

 沖縄の梅雨明けは例年より一一日早かった。現地は連日、厳しい暑さに見舞われている。県内各地から猛暑の中をバスや自家用車で駆けつける人々。その中には多くの沖縄戦体験者がいる。「悲惨な戦争を二度と繰り返してはならない」「人殺しのための基地は絶対に造らせない」という強い思いが、座り込みのエネルギーになっている。

沖縄戦とは何だったのか

 沖縄戦は一九四五年三月に始まった。米軍は五四万人の兵力と艦隊一五〇〇隻で包囲。一方、日本軍は一一万人、うち正規軍は八万五〇〇〇人で、残りは現地徴集の補助兵力だった。圧倒的な戦力差で戦う前から勝敗は決まっていたが、大本営は本土上陸を長引かせるため降伏を認めなかった。沖縄はいわば本土のための“捨て石”にされたのだ。
 退却する日本軍、“鉄の暴風”と呼ばれた米軍の艦砲射撃。地形が変わるほどのすさまじい地上戦が繰り広げられ、日本軍の命令による「集団自決」など凄惨な事件がいくつも起こった。六月まで続いた無謀な沖縄戦で、県民の四人に一人にあたる一二万人以上が亡くなった。沖縄戦を体験した四人の証言を聞こう。(=は出身地)

証言1 火炎放射器で焼かれた 島袋文子さん(八五)=糸満市

 「あたしはね、命からがら、壕から這い出したんだよ」「この海を埋めるなら、海に入ってでも止める」。
 島袋文子さんは、辺野古の米軍基地・キャンプシュワブゲート前で静かに、そして力を込めて語った。沖縄戦最後の激戦地・糸満市で生まれ、父は八歳の時に亡くなった。兄たちは防衛隊や兵隊に取られ、家に残ったのは目の不自由な母と一五歳の文子さん、一〇歳の弟だった。

 激しい艦砲射撃や空爆、機銃掃射が始まり、米軍が南部にも迫ってきました。家族三人で避難。昼は壕に隠れ、夜に移動した。目の見えない母と弟の手を引いて暗闇の中を逃げ惑っていた時、五歳ぐらいの子の手を引き、赤ちゃんをおんぶして逃げる女性がいました。そこへ艦砲弾の破片が命中。赤ちゃんの首が飛び、真っ赤な血が噴き出したのを今でも思い出します。
 ある晩、弟が水が欲しいと言うので、暗がりの中を歩き、砲弾跡にできた水たまりを見つけて飲ませました。翌朝、明るくなると死体が転がっていた。死体の浮いている水を飲ませたのです。
 私たちは「天皇陛下のために命を捨てなさい」「捕虜になったら、男は戦車でひき殺され、女は裸にされて辱めをうける」と教わった。小さな壕に四家族で隠れていた時、壕の外から米兵が「デテコイ」と叫びました。捕虜になるより死んだ方がましだと、出て行きませんでした。
 しばらくして穴の中に手榴弾が投げ込まれた。何人かが亡くなりましたが、それでも出て行かないので、今度は火炎放射器を壕の中に噴射したのです。息もできず、苦しくて両手を挙げて出て行きました。その時に負った火傷の跡は、今も肩に残っています。

証言2 今も思い出す赤ちゃんの目 伊佐真三郎さん(八五)=沖縄市

 辺野古から車を走らせ北に約一時間で東村高江に着く。高江集落をぐるりと取り囲むように、ヘリコプター着陸帯六基の建設工事がすすんでいる。二カ所はすでに完成し、オスプレイなどが訓練する。住民は二〇〇七年から二四時間、一日も休むことなくゲート前で反対の座り込みを続ける。そのうちの一人、伊佐真三郎さんは一四歳の時に沖縄戦を体験した。

 海軍少年志願兵になり戦艦大和に乗って国を守ろうと、友人と誓いの入れ墨を入れました。志願兵の検査は目が悪くて不合格になり、海軍に入ることはできませんでした。母は私を疎開船「対馬丸」で疎開させようとしましたが、出発の前夜、「家族を守るために僕は行かない。死ぬときはいっしょだ」と断りました。
 沖縄戦が始まり、艦砲射撃の中を縫うように逃げる途中、赤ちゃんを抱いた母親と出会った。母親は赤ちゃんを砲弾の届かない安全な道ばたに隠すと、自分は力尽きたのか川に飛び込んでしまった。置き去りになった赤ちゃんは、草の中で泣きもしないでじっとこちらを見つめていた。
 どうして、赤ちゃん助けてあげなかったのか? あの時は誰もが自分のことで精一杯だったと言い聞かせているが、いまも草の間から赤ちゃんがこちらを見つめている夢を見る。海軍に入った仲間と、対馬丸に乗った近所の人は誰も戻ってこなかった。戻らなかった友人の家の前は、通ることができない。「なぜ自分は生き残ってしまったのか」。自分を責めて眠れない夜がある。

証言3 ドラム缶に友人の肉片が 古堅実吉さん(八六)=国頭村

 毎週水曜日、辺野古と高江にバナナを持って、激励の座り込みに来る老人がいる。古堅実吉さん(元日本共産党衆議院議員)だ。古堅さんは戦前の沖縄師範学校一年生(現在の高校一年生)の時に沖縄戦を体験した。
 米軍上陸前夜の一九四五年三月三一日、軍命により師範学校生と教師で「鉄血勤皇隊」が結成された。私たち下級生は自活班として、食糧確保などの仕事をさせられました。首里にあった日本軍司令部では、発電機用冷却水の補充を任されました。冷却用の水をタンクに入れてひと休みしている時、艦砲弾が近くに着弾。いっしょにいた友人が破片に当たり亡くなった。砲弾の破片が水の入ったドラム缶を貫通して大きな穴が開き、穴の周りに友人の肉片がこびりついていた。
 南部に敗走中、周りには死体がごろごろ転がっており、死体を踏まないようにするには、つま先立ちで歩かなければならなかった。母親らしき女性が亡くなっていた。その上を赤ちゃんが這い回っていた。母の死体はすでに腐乱し、はいていたもんぺが引きちぎれるほど膨れていた。赤ちゃんはお乳を求めていたが、どうすることできず、言葉を発することなく通り過ぎた。
 あの時のことは、今でも頭から離れない。あの状況下では、どうすることもできないことは解っている。でも、なぜ助けることができなかったのか? 助けなかった自分が許せんのですよ。
 「生き残れたのは運が良かった」と言うでしょ。でもね、沖縄戦の犠牲を運の善し悪しで片付けるのは間違っていると思うようになった。それでは、この戦争で亡くなったことが「運」で片付けられてしまう。本土防衛の捨て石にされた結果でしょう。沖縄戦の教訓は二度と戦争をしないこと、軍隊を持たないこと、日本国憲法の精神を守ること。戦争につながる基地建設は、どうしても許せない。

証言4 暗い海に飲まれた従妹 平良啓子さん(八〇)=国頭村

 毎週月曜日、「大宜味村九条の会」が高江に座り込みに来る。会のメンバーに「対馬丸」の生き残り、平良啓子さんがいる。日本政府は一九四四年七月、沖縄戦の足手まといになると考え、沖縄の高齢者や子ども一〇万人を船で疎開させる計画を決定。すでに制海権は米軍に奪われ、海に出ることは米潜水艦の魚雷の餌食になる危険があった。国民学校の児童八〇〇人以上が乗った対馬丸は那覇港を八月二一日に出港。平良さん(当時九歳)は家族と従妹で同級生のトキコさんの六人で乗り込んだ。翌二二日午後一〇時過ぎ、米潜水艦の魚雷が命中し沈没。一八〇〇人近くの乗船者のうち、約一五〇〇人が亡くなった。犠牲者数は今も正確にはわからないが、児童の生存率は七%と言われる。

 暗い海には、救いを求める叫び声や泣き声が交錯していました。いっしょに醤油樽につかまっていたトキコちゃんは、真っ暗闇の荒れ狂う海に飲まれてしまった。私は一人で必死に泳ぎ、筏につかまり助かったのです。
 国頭村に戻ってきた時の、トキコちゃんの母の言葉が今も胸に刺さっている。「あんたは帰ってきたの」「うちのトキコは太平洋に置いてきたの」って。そう言われましたよ。私はもう、犯人ですよ。戦争を起こしたのは国だけど、被害者と思ったら加害者でもあったのか。そういう風に思うことがあるんです。
 翌年の三月下旬になると村でも空襲が始まりました。マラリアに罹った母と私、七歳の妹と四歳の弟の四人で山奥に逃げました。マラリアで動けない母に代わり、山道を二〇キロメートルも歩いて食糧を確保しました。弟は栄養失調でお腹が膨れ皮膚が黒くなって動けなくなりましたが、蛙を焼いて食べさせたら元気になりました。戦後、母は「啓子がいなかったら生きていなかった」とよく言いました。
 生きていても楽しくない、そう思わせる戦争の後遺症があります。だから、どこへでも出かけて子どもたちに平和の語りをしたい。これは私の使命です。二度と戦争を起こしてはいけない。戦争のための基地は絶対、造らせない。そのために高江に行くんです。

◆   ◆

 キャンプシュワブゲート前には今日も、たくさんの県民が集まっていた。座り込みをする人たちの中に、島袋さんの顔があった。先日お会いした時は、話の途中で感情を抑えきれず、インタビューを中止せざるを得なかった。
 七〇年経った今も、当時の混乱した記憶は整理できていない。辛く悲しい記憶は体験者の頭をかき乱し、沖縄戦のトラウマに苦しんでいる。血圧上昇、頭痛、情緒不安定など症状はさまざまだ。それらを乗り越え、体験を次の世代に残さなければという強い思いが、灼熱のゲート前に向かわせるのだ。


 全日本民医連は森住卓さんの写真パネル「辺野古 高江」を全事業所に届けました。ぜひ、活用を。

いつでも元気 2015.08 No.286

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