いつでも元気

2016年4月30日

認知症Q&A 第5回 問われなかった偏見の連鎖 列車事故の判決を考える お答え 大場敏明さん(医師)

 愛知県内で、認知症の男性が外出中に列車にはねられ死亡した事故をめぐり、最高裁が男性の家族に「賠償責任なし」との判決を下しました。一審、二審とも家族に重い責任を迫る不当判決だっただけに、“逆転勝訴”は大歓迎です。
 一方で、いくつもの偏見が不問に伏されたままの判決だったことに、疑問を感じざるをえません。

思い込みが前提に

 第一の問題点は、一、二審における裁判官の認識です。「認知症→“徘徊”→危険行為→監督対象の無能力者→家族に監督責任」という、いわば偏見の連鎖が垣間見られます。
 認知症は必ず“徘徊”を発症するとの思い込みや、認知症の人は無能力者との偏見があります。
 最高裁もこの偏見に関しては論じておらず、半ば公認になっていないか心配です。また、最高裁判決は「場合によっては家族や介護者が監督責任を負う」と指摘。責任の基準が明確でなく、手放しで喜ぶことはできません。
 報道にも“徘徊”への誤解を招く表現がありました。マスコミ各社の見出しを検証すると、「認知症患者の徘徊中の事故」が一般的でした。私が読んだ一〇紙中、「認知症」は全ての見出しに入っており、「徘徊」は三社に、「認知症事故」との表現が四社でした。

加害者と被害者を誤認

 第二の問題点は、そもそも加害者と被害者を取り違えたことです。
 事故は駅構内の安全管理体制の不備が原因で、JR側が加害者です。駅構内において駅員が乗客の動向に注意し、さらにホーム先端のフェンス扉を施錠していれば、男性は線路に立ち入らず事故にも遭わなかったはずです。
 列車事故に遭った被害者を、「徘徊中だった」との理由で加害者にしてしまった誤認があります。
 裁判はJRの不備を問うことなく、いきなり家族の責任論と賠償問題を論点にし、それに終始しました。これも認知症や“徘徊”への偏見からくるものです。

そもそも“徘徊”だったのか

 第三の問題点は、男性の行動が“徘徊”だったのかどうかということです。
 亡くなった男性の認知症は安定していたようです。一人で外出して駅に行った行動は、決して目的のない“徘徊”だったとは思えません。外出を“徘徊”と決めつけた裁判や報道のあり方を検証すべきです。

死語にすべき言葉

 福岡県大牟田市は、認知症の人を地域ぐるみで見守る「徘徊SOSネットワーク模擬訓練」を全国に先駆けて実施してきました。その大牟田市が昨年七月から“徘徊”との言葉をやめ、訓練の名称を「認知症SOSネットワーク模擬訓練」に変更しました。“徘徊”が誤解や偏見につながるとの判断です。
 前号で認知症の“問題行動”が死語になったことを紹介しました。“徘徊”も問題行動と同じく、死語にすべきです。

家族から見た列車事故

公益社団法人 認知症の人と家族の会

  1、2審判決は認知症介護の実態を全く理解しないうえ、昨今の認知症ケアの流れとは逆行する非情なもので、認知症への誤解と偏見をさらに増幅させる結果と なりました。判決により介護家族がどれほど不安を抱えることになったか…。24時間、片時も目を離さずに介護を続けることなど不可能です。にもかかわら ず、一瞬の隙に起きてしまう徘徊を防げと言われたら、「本人を拘束する」「閉じ込める」以外に方法はなく、人としての尊厳や認知症ケアの本質も封じ込める ことになります。
 今回の最高裁判決にはほっとしましたが、多くの課題が残されています。今後は徘徊に起因する鉄道事故の損害を補償する公的制度 の創設や、認知症への正しい理解を深めるよりいっそうの啓発活動が必要です。裁判で認知症への社会的な関心が高まりました。課題の解決には「自分事とし て」、社会全体でとりくむことが求められています。家族の会はホームページに裁判の見解を掲載しました。ぜひ、お読みください。

いつでも元気 2016.5 No.295

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