いつでも元気

2016年7月30日

まちのチカラ 第10回 島根県・海士町 隠岐の宝を移住者とともに

地図

 島ならではの自然と文化を今に色濃く受け継ぐ隠岐諸島。なかでも、地域再生のモデルとして注目を浴びているのが海士町です。日本海に浮かぶ離島でありながら、都会からの移住者が絶えない島の魅力を探りました。

8月はキンニャモニャ祭

 島根半島の七類港からフェリーで約3時間。海士町がある中ノ島は、約180もある隠岐諸島のうち3番目に大きな島です。といっても人が住んでいる島は4つで、無人島がほとんど。中ノ島と西ノ島、知夫里島は合わせて島前と呼ばれます。3島はもともと1つの火山島でしたが、カルデラ部分が水没して内海になっています。
 島の東側、明屋海岸にある「ハート岩」は、特にカップルに人気のスポット。また、菱浦港には3つの奇岩が並んだ「三郎岩」があり、大きい方から「太郎・次郎・三郎」と呼ばれています。
 毎年8月の第4土曜には、町最大のイベント「キンニャモニャ祭」がおこなわれます。しゃもじを両手に隠岐民謡「キンニャモニャ」を踊るほか、水中花火も。踊り手は大阪や東京からも訪れます。

夏には多くの海水浴客でにぎわう明屋海岸のハート岩

夏には多くの海水浴客でにぎわう明屋海岸のハート岩

 

移住者との協働

 取材初日、海士中学校で地域学習の発表があると聞いて訪ねました。ちょうどシンガポールの大学から視察団が訪れており、教室は国際的な雰囲気。2年生の生徒11人がキンニャモニャ祭をアピールする黄色いハッピを着て、町の魅力を発表しました。
 共通して紹介されたのが、Iターン者(島外からの移住者)の活躍です。特産品の開発や農産物のブランド化、教育支援活動などさまざまな分野で「移住者と地元の人がいっしょに活動していることが、町の大きな魅力になっている」と生徒たちは強調していました。
 移住者の受け入れを積極的に始めたのは、現職の山内道雄町長です。商品開発研修生の採用や起業支援など町をあげて移住を促進。この十数年間で450人以上のIターン者と200人超のUターン者(出身地への移住者)が定住しました。各種メディアにも取り上げられ、行政などの視察も大幅に増えました。
 いわゆる“よそ者”を惹きつける町づくりの核心について、山内町長に尋ねると「人づくりです」と即答されました。「産業振興も大切ですが、それだけではダメ。人間力を高める教育をし、町をこよなく好きになってもらうことです」。

島留学で夢を育む

 海士町内にある隠岐島前高校には、町外出身の生徒が80人以上も通っています。寮費などを町が補助する「島留学制度」に応募した生徒たちで、全校生徒の約5割を占めるそう。
 「人間力を高める教育」の実践の場として設けられたのが、公立塾の「隠岐國学習センター」。情報通信技術を使った学習や少人数で議論や活動をする「夢ゼミ」など、多彩な授業をおこなっています。古民家を改装した建物内は、高い天井と開放的な自主スペースが特徴です。
 鳥取県出身の“留学生”に話を聞くと、「もともと内気な性格を変えたくて、島に来ました。島の人が本当に温かいので、今では自分から話しかけられるようになりました」と自信たっぷりの笑顔。
 一方、地元の女子生徒は「島外生が来てから、島の見方が変わりました」と少し恥ずかしそう。留学生に誘われて外出すると、身近なところにも新しい発見があって驚くのだとか。人との出会いが人間の成長には欠かせないということかもしれません。

島の宝を商品化

 新たな出会いによって生まれた特産品はいくつもあります。
 10年前に商品化された「ふくぎ茶」は、海士町で昔から飲まれていたクロモジ(クスノキ科の落葉低木)を使った健康茶。島外者の視点で町の宝を発掘してもらおうと、町が雇用した「商品開発研修生」によって提案されました。生産を担う障害者就労継続支援事業所「さくらの家」の本多美智子施設長は「はじめは本当に商品化なんてできるのかと半信半疑でした」と言いますが、今は生産が追いつかないほど売れ行きが好調だそうです。
 町が誇る岩牡蠣ブランド「春香」も、移住者と地元漁師の協力によって15年前に生まれた特産品です。それまで海士町では岩牡蠣を食べる文化はなかったそうですが、隣の西ノ島で稚貝育成に成功したというニュースを聞いた移住者の男性が、新しい仕事をつくろうと養殖業に初挑戦。今では年間70万個を出荷する一大産業となり、東京の築地市場でも高値で取り引きされています。

二人三脚で産業振興

 海士町の宝といえば、なんといっても海産物。しかし本土から遠いため、到着するころには鮮度が落ちて値が下がることが大きな悩みでした。さらにイカの輸入が自由化されたうえ、資材や燃料費が高騰すると町の基幹産業は急激に衰退。人口がどんどん流出し、少子化とも相まって戦後約7000人いた町民は3分の1まで減少しました。
 そこで導入したのが「CAS」と呼ばれる冷凍システム。細胞を壊さずに保存でき、解凍しても獲れたての生魚のようにおいしく食べられるというものです。町が命運をかけて2005年に導入した結果、市場までの移動距離に関係なく、また旬の季節以外にも海産物を都会に売ることができるようになりました。
 これを皮切りに、町が設備投資して民間企業が運営するという二人三脚の協働スタイルが定着しました。海士町地産地商課の大江和彦課長は「今では議会も前向きに捉えてくれるようになった」と言います。以前は特定企業や個人との協働に反対の声が大きかったそうですが、CASの実績を示すことで新しいアイデアを実現しやすくなったそうです。
 町で人の往来が最も多いのが港であることから、情報のやり取りをするため、地産地商課は菱浦港ターミナルの2階にあります。公務員でもローテーションで土日に勤務。「エネルギー源は地域に対する愛着です。一次産業の後継者をつくるために、自分たちも踏ん張らないと」と大江さんが笑顔で語ります。

情熱に魅せられて

 海士町を取材して最も感じたのは、人々のチャレンジ精神でした。この十数年間に始まったとりくみは紹介し切れないほど。町に来て10年という観光協会の青山敦士さんが、その理由を端的に話してくれました。
 「海士町は山内町長をはじめ、リーダーシップに優れた50代の役場職員が各課で活躍しています。『責任は町がとる』と言って、僕たちに新しい挑戦をさせてくれる。地元の熱い先輩といっしょに仕事がしたくて、移り住んでくるIターン者は少なくありません」。

文・写真 牧野佳奈子(フォトライター)
★次回は滋賀県多賀町です。

いつでも元気 2016.8 No.298

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