いつでも元気

2010年8月1日

元気スペシャル 「医療保険改革法」成立 アメリカの無保険者は救われるか 文・薄井雅子(在米ジャーナリスト)

 映画「シッコ」などで、国民皆保険制度がないアメリカ医療の問題は、多くの人が知るところとなりました。オバマ政権が発足して2年目、医療保険改革はどう進んだのか?

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 米連邦下院は三月二一日、医療保険改革法案を二一九対二一二の賛成多数で可決し、オバマ大統領 の署名でこの法案は成立しました(一部をのぞき二〇一四年実施)。連邦政府による医療保険法導入は、六五歳以上対象の公的保険「メディケア」と低収入者対 象の「メディケイド」が導入された一九六五年以来のことです。
 ただ、オバマ氏が公約した新しい「公的保険」(民間保険と並存)は実現しませんでした。現在ある民間保険に頼って「皆保険」をめざすかわり、民間保険業者の「もうけ」の手口を一定規制する内容です。

民間保険だのみの現実

 一般国民を対象にした政府管掌の公的保険がないアメリカ。国民は民間保険商品を購入するしかありません。メディケアにしても、骨格部分以外は民間保険が補完する形になっているのが実情です。
 民間医療保険会社は、月々の保険料から窓口払い額、カバーの内容、個人負担の設定など、千差万別の「商品」を売り出しています。まるで「車両保険」のよ うな品ぞろえ。安い保険料の商品は、カバー範囲が狭く、受診する病院から、治療や投薬の内容まで選択の幅が狭くなります。医師がすすめる治療にさえ、保険 会社が「支払いノー」ということもあります。
 保険料も年々上がっています。平均保険料(会社で加入する家族用)は、月額一〇万円を超えます。この一〇年で二・三倍になり、これは賃金上昇率を上回っ ています。“カネが命と健康を左右する”、これが先進国・アメリカの現実です。

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 また、保険会社は「既往症」を理由に、保険への加入さえ断ってきました。たとえば、心臓病になったAさんは会社を変わりましたが、新しい会社の保険会社 には、心臓の「既往症」のために加入できませんでした。また、先天性の病気も「既往症」として扱われるため、保険に入れない子どもたちもいます。
 私の住むミネソタ州で、現職警官が銀行強盗をして捕まり、大騒ぎになる事件がありました。地元ニュースによると、この警官には、先天的な病気をもった子どもがいて、ばく大な医療費の借金をかかえていたそうです。
 この「既往症」を理由にした加入拒否は、一三〇〇万人を超えるといわれます。医療保険をもたない米国民は四七〇〇万人に達し、それに「保険に加入してい てもカバーが不十分」という人(推定二五〇〇万人)を加えると、米国民のおよそ四分の一が「医療保険難民」ということになります。(図参照)

無保険者をどう減らす?

 今回の「改革」では、ほとんどの米国民に民間保険を買うことが義務づけられました。雇用主から 保険の提供がなく、個人で保険を買わざるをえない労働者や、低収入の個人には、州が設立した保険商品売買所で保険商品を買うことができます。そのさい、収 入などに応じて政府補助金が出ます。
 そして、先に紹介した「既往症」による保険加入の拒否などの差別は禁止されることになりました。また、無収入の学生や低所得の青年のために、二六歳まで両親の保険のカバーが続くように規制されます。
 メディケアは、処方薬の支払いが約二九万円に達すると、それ以降、約四六万円に届くまでの間は自己負担になるという「大穴」があいていました。その解消 をめざして、約二五〇〇〇円の薬代援助が出るようになります。またメディケイドの対象者を、貧困ラインの一三三%(四人家族で年収約二七〇万円)まで広げ ます。
 一方、民間保険を購入しない人には、増税となります(年収約一二〇万円に満たない人は除外)。企業の場合は、従業員五〇人以上の会社が労働者に保険を提 供せず、そのために労働者が政府補助を受けて自前で保険を購入した場合、その会社は一人につき約三〇万円のペナルティーを払うことになります。
 以上の「改革」によって、現在の無保険者のうち三二〇〇万人が保険に加入すると米議会予算局が試算しています。それはまた一方で、政府の資金によって保 険会社が新たな顧客を得ることにもなるわけで、保険業界が経済的・政治的影響力を強めていくことに危ぐの声もあがっています。

命と健康を「ビジネス」にしてはいけない

なぜ公的保険はできなかった?

 アメリカに、これまで公的保険をつくろうという考えがなかったわけではありません。一九一二 年、「ドイツの健康保険に学んでアメリカにも労働者の医療保険を」と訴えた大統領候補が出ましたが、落選し、実りませんでした。その後、大量の失業者が出 た大恐慌時代(一九三〇年代初頭)にも、公的医療保険が提案されました。しかし、「患者と医師」の間に政府が介入することを嫌う開業医組織の猛反対運動に あってつぶれました。
 こうして公的保険創設が遅れをとっている間に、民間保険業界はどんどん成長し、一大産業となっていきました。大手保険会社一〇社の利益は、二〇〇〇年か ら二〇〇七年までを見ても約二二〇〇億円から約一兆二〇〇億円にふくれあがっています。
 いまや民間保険業界は、生き残りをかけて「公的保険」を徹底的に攻撃し、議会や議員への働きかけも強めています。議会では共和党が先頭に立ち、「公的保 険は社会主義」(国民の選択の自由を奪うというこじつけ)とか、「連邦政府の権限が大きくなると自由がなくなる」という論陣をはりました。
 またタウン・ミーティングでは、「ティー・パーティー」を名乗る人びとが「オバマ『改革』はナチズムだ」などといって悪罵をなげつけました。こういう 「恐怖の宣伝」が米国民に浸透するにつれて、一時は「改革」自体が暗礁に乗り上げそうにもなりました。
 大手保険会社の宣伝広告部長として、長年「公的保険つぶし」に貢献してきたウェンデル・ポッターという人がいます。彼は最近「自分の果たした役割を深く恥じている」と、次のような発言をしています。
 「これまで保険『改革』にたいするウソや偽情報をふりまいて、米国民を震え上がらせてきました。それは大成功をおさめ、強欲な保険会社のCEO(最高経 営責任者)たちに三〇億円もの年収を約束したのです。そのために多くの国民が無保険に追い込まれ、毎年二万人もの人びとが亡くなったのです。政府が個人の 健康を左右する、と恐れる人びとに、『それではあなたの健康を財界が牛耳るのはいいのか』と問いかけたい」(二〇〇九年八月)

無保険で何万人が命を落とす?!

 アメリカの研究機関の推計では、25~64歳までのアメリカ人のうち、総計13万7000~16万5000人が2000年から6年間で、無保険のためにまともな医療が受けられずに死亡している。(アーバン・インスティテュート 2008年発表)。
 また、ハーバード医科大学の医師らの2002年調査を分析すると、年に約4万5000人が無保険のために死亡し、この数は腎臓病の年間死亡者を超えてい る。 なお、無保険者は保険加入者に比べて死亡率が40%も高いという。

 

「なんでも市場原理」の国の困難

 今度の「改革」をウォッチしていて、なんでも「民営化」「市場原理」中心のアメリカでは、「公 的」と名のつくものの実現がいかに大変かを実感しました。とりわけ、国民の命と健康を「基本的人権」として政府の最優先課題にする、という発想が議会でほ とんど出てこないのです。「公的保険はアメリカン・ドリームに反する」、といった共和党議員までいるほどです。
 アメリカの医療保険問題の根源は、「国民の命と健康は、『もうけ』を目的にしたビジネスとは相容れない」ということに尽きます。そのために多くの命が失 われ、医療費負債による破産も相次いできたのです。解決法は、「国民の、国民による、国民のための」公的医療保険の実現しかありません。

シングル・ペイヤー求める運動も

 少なくない医師や国民が、真の「改革」を訴え始めています。それは、「シングル・ペイヤー」、つまり国民の医療費は政府基金によって支払う制度(日本のような健康保険)を求める運動です。
 シングル・ペイヤー支持の医師グループは、「いまの病んだ保険制度にたいして、公平かつ財政的にも健全、そしてもっとも人間的な治療法は、シングル・ペ イヤーしかない。その実現をめざして努力し続ける」と宣言しています。米国民のこれからの運動に注目していきたいと思います。

いつでも元気 2010.8 No.226

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