[特集]Special Interview
医者として生きる ――医師の使命と幸せ
肥田舜太郎さんと語る
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1945年8月の原爆投下・敗戦から60年の今年、世界は、未だに核問題・化学兵器問題を背景にしたアメリカ主導の軍事体制に支配されています。
しかしながら、今年は、「NPT(核不拡散条約)再検討会議」なども開催され、世界各国で核廃絶・戦争反対の運動が盛り上がってきているのも事実です。
『我々は今、何をなすべきなのでしょうか』『わたしには、何ができるでしょうか』
この答えを導き出す為に、自らが被爆者として、被爆者医療に携ってこられた肥田舜太郎先生に、当時の、被爆の様子から、次世代の若者に託す医師としての思いなどを、被爆地の長崎・広島の医学部で学ぶ、領家由希さんと望月亮くんがインタビューしました。
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肥田舜太郎
●ひだしゅんたろう。1917年広島市生まれ。1944年陸軍軍医学校卒。軍医少尉として広島陸軍病院に赴任。1945年8月6日原爆被爆。被爆者救援にあたる。1953年全日本民医連の創立に参加。全日本民医連理事、埼玉民医連会長、埼玉協同病院院長などを歴任。現在、日本被団協原爆被爆者中央相談所理事長。この間、海外渡航32回延べ33カ国で被爆の実態を語り、核兵器廃絶を訴える。2003年にはドキュメンタリー映画『ヒバクシャ・世界の終わりに』(鎌仲ひとみ監督)に出演。最近では原爆症認定集団訴訟で証人尋問に立ち、被爆者支援を積極的に行っている。主な著書に『広島の消えた日』(日中出版)『ヒロシマを生きのびて』(あけび書房)などがある。
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| 広島平和記念公園・原爆慰霊碑 |
望月 はじめに、肥田先生は、なぜ医師になろうと思ったのかお聞かせください。
肥田 自分は、私が18代目っていう古い家柄の家系でね。代々権力とか、そういうものにいつも歯向かっていた家柄の家で育ちました。小さい時、シュバイツァーの伝記を読んで、彼が黒人社会の中に入って、みんなのために働く姿に感銘をうけて、医師になろうと決心したのです。親父が変わった人で、非常に自由主義で、何をやっても認めてくれる親父なのに、『医者だけはなるな!』と言ってね。何か個人的に医者という職業にあったんでしょうね。そういった事もあって、最初は建築の方に進んだのだけども、ある時、思いきって親父に『自分は、いずれ戦地に行って死ぬのだから、生きている間に自分がやりたいことがやりたいから』と言って医者の道に進んだのです。だから、あなた方には、病院に勤めていい給料をもらうという事ではなく、近代的な、人間の医学という一番大事なものに、いつも真剣勝負でぶつかるという、ある意味、過酷な了見が欲しいと思います。
「治癒」と書いたために死ぬという矛盾
領家 先生が被爆したときの状況を聞かせてください。
肥田 当時は、医者になった途端に(社会に出る前)軍隊に入るのです。軍医学校で、戦場で働く医者としての最低限の教育を受けるわけです。普通、医者の教育というのは命に対してとことん助けるまでがんばるというのが教えですが、軍医学校では、戦場の医師としての教育なので、日本軍が進撃する時や、退却する時など、その患者にとらわれていて全体の役にたたなくなるようなことはしてはいけない。つまり、『時と場合において人間の命というのは大局的に考えろ』というのを教えるわけです。それが、天皇の軍隊の思想だったのです。だから、医者として矛盾を感じたまま病院で働いていました。
肥田 ある時、臨時に患者を担当することになったのです。退院するときに医者は診断書を書きますが、ある時ひとりの患者さんがいて、診たところ状態もいい、検査もいい、しかしながら、僕は、あと3ヶ月は療養した方がいいと思っても診断書には治癒と書かなくてはならなかったのです。
そして、その人が退院してどこに行くかというと、家にも帰れないで、まっすぐ、自分のいた部隊に帰るのです。彼の部隊は中国の奥地のどこで戦争しているかわからないが、自分で探して帰らなければならないのです。そうすると、戦場なので途中で必ず死んでしまう。
自分が治癒と書いたために死ぬことになる。命を助ける医者なのに、なぜ死ぬかもしれないのに、診断書に治癒と書かなければいけないのか。そんな矛盾を感じながらずっと軍隊にいました。
一九四五年八月六日
肥田 そういうときに、突然、あの日がきたのです。自分が働く病院で当日勤務していたら私は即死だったでしょう。働いていた病理検査室は全滅で、あとかたもない。18人いた部下は即死でした。
私は、その日、たまたま夜中の2時ごろに知り合いの農家に往診を頼まれて、ある村に行っていたのです。ちょうどそのころ、私がいた村から広島に飛行機が入っていくのが見えたのです。
広島は毎日、米軍の飛行機が来て、空襲警報はあるが、不思議と爆弾は落ちない。いつも素通りなので皆なれっこになっていました。『広島には爆弾は落ちない』とさえ思っていました。
その日も、1機だけ来たから偵察だと思っていました。
ちょうど、鎮静剤を注射したら帰ろうと思い、その子の手を取った時でした。
ピカッとした、すごい光でした。後ろを向いていても目がくらむような光でした。
私は訓練を受けている軍人だから光がきたとたん、目をつぶって地面に伏せたのですが、何も音もしない、何事もない。じっとしているのは怖いので、伏せたまま這って行って、縁側まで出たんです。ふと、広島の方を見上げると、その時に、きのこ雲ができる前、火の玉ができるところを見たのです。これを見た人は何人もいないと思う。遠くでみた人が絵に書いてあったのは見た事がありますね。空中に赤い火の輪ができるのですよ。そして、その真ん中に白い雲ができてね。この雲が広がっていくのですよ。そしてその雲が火の輪に、くっついた途端に火の玉になる。太陽というしか言いようがないくらいのすごい大きさでした。そしてその後、きのこ雲になるわけだけども、きのこ雲は、下に足ができて上がふくらむ、下にできたのは雲ではなく火柱だったのです。私からいうと広島が火になったという感じでした。
それから、2、3秒後爆風が押し寄せてくる、自分が飛ばされ、家が壊れるという状況でした。そうして自分は被爆したのです。瞬間に起こったこと、数秒間に起こったことなのですがよく覚えています。
そして、広島に戻らなければと思って、何とか付近までたどり着いたのですが、火で入れない、まだ、広島はそんなに燃えていない時なのだけど、私が、入ろうとしたところの工兵隊の屯所が爆発していたのでちょうど入れなかったのです。
勤務先の病院まで行きたいが、そのまま引き返してね。逃げてきた人は、みんな自分のいた村を通るから、そこで診察しようと思ったのです。そこから被爆者の診療が始まるわけです。村に帰ったときは、村の乾いた土の上、広場、役場、大きな家の庭、大きな道路など、そこは全部人が倒れていました。逃げてきた人で、立って歩ける人はほとんどいないのです。そこまで逃げてきたのがやっとで、倒れてしまって、皆、横たわっているのです。だから、その中にこちらが歩いていくのですが、全部焼けているわけです。顔も人間の顔ではない。そういう中に立って、医者は何をすればいいのか決心がつかないのです。道具はない、治療する場もない、野原でひっくり返っている人をどうすればいいのかわからない。
戦場でもそうだけれども、戦場の場合は弾にやられるわけだから、どこかに穴があいて血が出ているとか、怪我をしているのだけど、この場で倒れている人は、見たところ人間ではないように見える、焼け焦げた肉の塊なのです。だから、何をしたらよいかわからない、そういう中から少しずつ理性をとりもどしていくわけです。『何かしなくてはならん』と。よく2、3日気が狂わなかったと思う。
医者というのは、何がこわいかというと、目の前にいる病人、怪我人が、どこが悪いかというのがわからないことです。火傷をしていれば、火傷の治療をするわけですが、症状があまりに酷すぎて、どこに薬をつけていいかも分からないし、苦しそうだから苦しみを取り除いてやりたいけど、何をどのようにしたらいいのかわからないのです。
忘れられない目
肥田 60年間被爆者を診てきましたが、どうしても忘れられない人が何人かいます。被爆者がたくさん寝ている中で、一目見てもう助からないと思われる人の治療にかかりきりになってしまうと助かる人も死なせてしまうので患者を選ぶようになるわけです。だから、治療すれば助かりそうな人を優先的に治療するために、または、死んだ人を見つけるために被爆者が横たわっている間を歩いて回ったりしていたのですが、そうすると、寝ている人が、私を見上げながら、苦しいから早く診てほしいというすごい目をして、にらむわけです。私は、その人たちの間を、『この人は助からない、この人もダメだ』と思いながら目をそらして歩いていました。
そのうち、目をそらそうと思ったが、そらし損ねた人がひとりいて、仕方なくその人の前に膝をつき様子を伺うと、顔や頭が全部焼けていて男女の区別もわからない、全身焼けていて、手でさわるところがない、だけど目だけがギラッとして私をにらみつけている。そして、その人の左側のほっぺたに1ヶ所だけ焼けていないところがあったので、何も治療できないけど、せめてと思いそこに手を当ててみたのです。そしたら、本人は何かしてもらえるというか安心したのか、ギラッと私を見ていた獣みたいな目が柔らかくなってね、普通の人間の目になったのです。そして、その目が私を一生懸命にじっと見ているのです。
自分は、それまで、たくさん死骸をみていたから人間という意識が麻痺していたのですね。その時、初めて自分が診ているのは人間だったという意識をもったのです。その後、その方は、柔らかくなった目で何か言いたかったのかなと思いますが、頭を落とし、死んでいったのです。その目が今でも時々夢にでてきます。どうしても忘れられないのです。
そのときの意識というのは、自分が対している人は、みんな生きていて生活もあった大事な人間なのだという感じが、広島のたくさんの被爆を診た瞬間にどこかに吹っ飛んでしまって、人間を診ているという感覚がずっとなかったのです。あの時初めて『俺は人間を診ているのだ』という意識を持ったのです。
その人も、医者が来て触ってくれたことにホッとしたのでしょうね。きっと、最後に少しは癒されたのではないでしょうか。その人は獣のように物として殺されるというのではなく、人間として死ぬことができたと少なくとも自分はそう思っています。だから、医師の大切さというのは何人助けるかというのではなく、ひとりの人間が人間として死んでいける、そういうときに医師というのは、こんなに大事なのだということを教えてくれたのだとずっと思っています。
民医連を作った理由
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| 広島市内を流れる元安川にかかる相生橋からの眺め。左に広島平和記念公園、正面には元安橋が見える |
肥田 医者になって、たくさんの人を診るようになると、人数でみるようになってしまいます。今の外来では、検査のデータをみて異常がなければ次の患者の診察に入るのです。その患者さんが何を考え、何を頼みに来たのか、聞く時間もない。今の日本の医療は人間と人間が会っているのではなく、医者という木偶の坊が、そこに来たひとりの人に3分使って、『はい。次』と言って、患者さんを物として扱っている。だから私は医者に、どんな時でも人間をみているという意識を忘れないようにしてほしいと思っています。
民医連を作ったのはそういうつもりでした。
大学病院や大きな病院で毎日行われている医療は、人間を診る医療ではなく、物として生物として患者さんを扱う傾向にあります。そうではなく、人間の苦しみや悲しみを一緒に共感しながら自分の専門家としての技術で役立っていく、そういう医者を作りたいと思ったから民医連を作ったのです。今、その精神は大部分どこかにいってしまい、民医連でも残念ながら似た様なことをやっています。
今の社会を維持していくひとつの勢力がなせる業で、民医連の責任だけではないのですが、せめて抵抗精神だけでも民医連に持っていてほしいと思っています。
昔の医者が、『赤ヒゲ』なんて言われたのは、その人が貧乏でどうしようもないから、泊り込んで全力でその人の命を助ける、報酬はぜんぜん望まないというのが『赤ヒゲ』だった。でも今、それは個人ではできませんよね。また、民医連の医者がみんなそれをやったら収入がまったく入らないから成り立たないし、だから限度がある。限度をこえる問題は個人や民医連の力だけではなくて、周りの患者を育てて、患者に矛盾の根源をわかってもらって、自分の問題だから自分で責任を持って自分の命と闘う。だからお金がなくて医者にいけない、あるいは保険が切れてだめだとか、年金を削られてだめだとか。そういうのは、削られた本人に向かって、「あなたが闘わなければならない」と言わなければならない。私が代わりに闘うわけにはいけないのです。
領家 そういう社会の矛盾や被害を実際に受けて実感している患者さんが、一番、身にしみてわかっているはずですよね。
肥田 病院に来るのは、病気になって来るわけだから、体のことで来るわけですよね。その人の、体の健康の問題と、それが病気になる問題、この仕組みをまず土台で考える。生まれてきた人間は80歳なり、90歳なり元気で生きられるものを親からもらって来ていて、普通なら生きられるわけだけども、途中で生活の仕方を間違えたり、あるいは、強制されたりして、悪い環境の中で狂っていく。狂いながら成人病を作っていくわけです。狂う元は、社会と本人に関係があるのです。医者は関係ないわけです。そこを守るのは、親が子供を育てて、できるだけ病気を予防することに一生懸命になった上で、病気になったら、早く治るにはどうすればいいか、親が知識をもって努力する。それではずれた場合に初めて病院にいく。
ところが、今の親は風邪をひいただけで病院につれてくる。忙しい医者のところに風邪をひいて行って、お金を払って時間をかけて治ったつもりでいるという考えは変えないとダメなのです。
そういう考えを変えるのが民医連なのですよ。本当は、これは、厚生労働省がやらなければいけないのだけども。
そのために、忙しい時間が犠牲になっていく、その代わり、病気になったら、ほかの病院が治す治し方と同じなのですよ。お金はもらいますと。だけど、他の病院でやらないことを事前にやって、そしてみんなが病気にならないようにする。なっても、軽くするというのを教育の力で全力を挙げて、医者も看護師も、事務もみんながやる。僕は、それが民医連だと思う。
領家 肥田先生がこの問題を続けてこられたのはやはりご自身の被爆経験があったからでしょうか?
肥田 僕は、この世界中で一番矛盾の大きい、しかも、自分が関わって、日本人が世界ではじめて犠牲になったこの問題は、どんな事があっても孫や、次の世代まで伝えなければいけないと思っています。今の代でこの問題が片付くとは思っていません。
ほとんどの被爆者は自分が被爆者だとは言いません。28万いる被爆者で被爆者ですと名乗っている人は1割もいないのです。皆隠している。隠している理由は皆違うが、大部分は『話してもわかってもらえない』というのがほとんどなのです。
被爆者の味方で、何人も被爆者を助け頑張ってきた人がいても、被爆者の方は、『自分の今のこの苦しみは絶対わかってもらえない』と感じています。ひとりの人間が複雑な社会と、その社会の具体的な何人かの人間との間で苦しんでいるのです。
また、我々も被爆者の具体的な苦しみを理解することはできないのです。だから本人は言わないわけです
被爆者の苦痛は生理学的に、病理学的に、ここにこういう変化があって、こういう痛みが出る、こういう症状が出るということで説明して片付けられる苦しみではないわけです。ここまで核兵器は人間を苦しめるのです。やったほうは知らなかったかもしれないが、やった以上そういう苦しみが出てきたら、それを認めて、それにふさわしい対応をすべきなのです。
この問題は、お金で始末できる問題ではないのです。小学校1年の教科書から核兵器はこういう苦しみを与える。今の医学でも解決はできない。だからこれは1日も早くやめるべきであると教科書に書くべきなのです。そして、子供にも教えていくのです。それが、本当でしょう。ところが、無かった事にするという教育をやって、平気でいるっていうのは私からみると、とても許せないのです。
「8月6日に広島で何がありましたか?」
領家 教科書でも原爆についての事実を、落とされましたという記述だけで終わっていますよね。
肥田 教科書には、原爆をだれが落としましたと書いてあればまだいいですが、落とされましただけだからね。長崎では知らないが、広島では小学校の先生が毎年小学校1年生にアンケートを出すのです。
『昭和20年8月6日に広島で何がありましたか?』という。原爆が落ちましたと書くのは4割しかいないのですよ。あとの6割の1年生は知らないのです。そして、次に、原爆が落とされたことを知っている4割の1年生に、『原爆が落ちたのはどうしてですか?』と聞くとソ連(ロシア)が落としたというのが7割、アメリカが落としたというのが3割なのですよ。彼らの受けている教育はソ連(ロシア)が悪者で、アメリカが善人だから、絶対アメリカは落とさないことになっている。
そして、最近の話ですが、ある被爆者が小学校4年生に話をしたときに、ある小学生が、司会の先生に質問をしたのです。『日本は本当にアメリカと戦争したのですか?』と聞いたのです。『戦争したのだよ』と答えたら『どちらが勝ったのですか?』というのです。今の日本は、こういう状態なのですよ。そこまできてしまったのです。
領家 私は長崎大学に通っていて、授業でも平和講座が一応必修としてありますが、資料をもらい、それに基づいて授業をしますが、事実はこうだったと科学的に分析しているだけで、それで被害を受けた人たちがどういうふうにその後、生きてきたのかとか、そういうところまで踏み込んでいないのです。私が長崎にきたのは偶然ではありますが、被爆した土地というところでこだわってやっていきたいと思っています。そういうところを、どのように学生や若者たちに、伝えていったらいいのか、どのようにしたら大きな問題として、とらえてもらえるのかなと考えていますが。
肥田 今の医学は放射線が人体に与える影響について、殆ど解明できておらず、特に低線量の内部被爆については不明の段階に留まっています。
私は被爆者をたくさん診て、分からないために最新の論文を読み、世界で一番先端にいる学者や医師に会ってその話を聞き、勉強してきました。だからそういう水準にいると思っています。そういう状態が今の核をめぐる情勢ですね。
その中で医者になるあなた方だから、『あいつは変わっている』と言われるくらい、命にしがみつく、目の前の命に。でも、ひとりではできないことですよね。
領家 今度5月にニューヨークで開かれるNPTに私も参加するのですが、ヨーロッパなどでは核廃絶への動きが盛り上がってきています。そういう中で唯一被爆している日本がそこまでの動きができているのだろうか、もっと世界に日本だったら言えることがあるのではないかと思うのです。しかし、現在はその役割を担えてないのかなと少し残念に思うのですが。
肥田 私が外国に行きだしたのが1975年ですが、被爆30年のときです。はじめて外国に行って外国人が広島・長崎に原爆が落ちた事すら知らない人がいっぱいいるということを知ったのです。広島に原爆が落ちたことは知っているが、長崎は中国のどの辺にあるのというような新聞記者がいたくらいの時期です。原爆が落ちたことを知っているけど、原爆が落ちたときに人間がどうなったかを知っているかというのは誰もいなかったのです。だからびっくりして外国に行かなければと思い、私は30年間外国に行き続けたわけです。
毎年広島と長崎で世界大会があって、みんなから集まったお金で旅費をだして講師を呼んで教育をやってきました。50年やって、やっと世界の圧倒的な国がよくわからないが核兵器だけはいけないと、そういう決議を国連でしてくれるところへは来たのです。でも、決議に投票している代表自身に具体的に核兵器のことを聞いても何も知らないのが現状です。
核兵器をなくすために
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| 広島平和記念公園・平和の鐘 |
肥田 核兵器が悪いのはわかってきたが、どう悪いかは知らないのです。どう悪いかをもう少しレベルを下げて、肝心なアメリカと日本の国民の中にどれくらい浸透させるかがこれからの勝負であると思います。核を持っていようとする側は、国民が核に無知な事を頼りにして持っているのです。アメリカは、アメリカの国民が全部ノーと言ったら核は持てないのです。
アメリカが核兵器をもっているからアメリカは政治力が強いのだと、アメリカは正義のことだけをやっていると大衆は思っているのです。また、そうでないと思っている大衆は政権に近づけないのです。大衆の中へどれくらい真実を伝えていくかが勝負で、アメリカに行くことはいいけど、行った人間がものすごく精力的な活動やったらアメリカが変わるかといったらそうはいかないのも現状です。アメリカはなかなか変わらない。
だけど、世界の人がどんな状態になっているのかを見に行くのはいい勉強になると思います。
今、問題なのは日本人に核兵器の本当の恐ろしさを津々浦々に知らせていくことです。
これは、今の憲法と同じでしょうね。
大部分の国民は憲法と無関係に生きています。普通の生活をして、時々思うのです。そのときに思うのは、社会保障だったり、リストラだったりそういうことで、憲法ではないのです。憲法は法律を作るもの、その法律で僕らは縛られている。法律には目が行くけど憲法に目は行かないのです。今突然、憲法が危ないといくら言っても、『憲法?
そうですかね、戦争はよくないですよね』といった具合で、よくわからないというのが大部分だと思います。
そういう国民のなかで気の長い、しかも今日すぐわからないといけない問題をどうやってわからせるかというのは、わからせる人間がその本質を本当によく知ってない限り言えないことなのです。うろ覚えや、誰かから聞いた話では、ちょっとした疑問を出されたら答えられないのです。何を聞かれても『違う!』と、『ここが問題なのだ』と言える、そういう習い方をしないといけないでしょう。
そういう、教え方のできる人が今少ないと私は思っています。それは、時間のかかることではないのです。被爆者が『私を見てください。私は60年間こんなに苦しかったのですよ。それはあの原爆だったのです。目の見えないあの放射線のために私はこうなったのです』と一言いってくれたら、放射線という言葉がその人の意識の中に入れば、あとの話は簡単なのです。
人でなくなる恐怖
望月 被爆にあわれた方に、自分のことを話してくださいといっても、あまり思い出したくない、触れないでほしい、そういう方がたくさんいると思うのですが。
肥田 たくさんいますね。私はそのほうが普通だと思います。あの状態を思い出すというのは、そこに死んでいく他人が無様だから言いたくないわけではなくて、自分も無様だから言いたくないわけです。傷ついた親だったり子供だったりを本当なら抱きついて逃げなければならないのにできなかったのです。人間だったら、しなければならないのに、それが怖いからできなかった。そこで人間ではなくなるのです。そのことを自分が思い出すのです。それが嫌なのですよ。『だからあの瞬間には触らないでほしい』と。いろいろな人がいるが共通するとそこへ行きつくのです。あの惨めさ、無残さはたくさんの人もそうなっているからではない、自分も含めて人間がそうなっている、それは言いたくないということなのです。
望月 自分が人でなくなったという経験がいちばん恐怖なのですね。
肥田 そうです。だから『原爆は人間を人間でなくする』というそういう言葉が生まれるのです。
望月 先ほど、医者として助かる人、助からない人を見分けていた、自分も麻痺していたとおっしゃっていました。その中で、自分が獣のような目をした被爆者の方の目が変わったのを見て改めて人間として見られるようになったということをおっしゃいましたが、その後はよりつらかったのではないですか。
医者としていちばん大事なこと
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| 広島平和記念公園・原爆の子の像 |
肥田 そういう衝撃をうけて、自分のなかに何かが、ひらめくのですが、医者として、翌日からする仕事は前と同じで、環境も同じだから元の人間に自然と返ってしまうのです。そして、少しずつ、原因を勉強していくのです。勉強をしていくと、目が開けて、いままで疑問だったことがスーッとわかるようになるのです。そうすると、自分が今まで見たことを全部反省して見方を変えなければならない。そして、パッとは、変わらないから翌日患者を診ながらでも少しずつ変えていくのです。そういう中で、医者として被爆者だけ診ているわけではないので、普通の患者も診ているのですが、その見方に影響していくのです。そして、自分の理論がそこで厚みを帯びてくる。医者として、いちばん大事なのは『聴診器ではじまって聴診器でおわる』こと、人間をどうみるかということが勝負なのです。だから、私の医療は技術史の医療ではなくて、人間を診るという正しい医療なのだということです。
望月 人間として見るということに立ち返られたということで、より人間を診られるようになったということですね。
肥田 そうですね。これは、絶えず毎日研鑽しないと薄れていくしね。僕たちが持っているものは、つまり一種の技術ですから、相手が物であろうと人間であろうと無差別に与えようと思えば与えられるわけです。与えた後、どうするのかを考えるのが医療であると思うのですが、今の医者は、与えたら自分の責任がなくなるのですよ。注射し、薬を飲まして、外来の後、家に帰る。翌日から2週間の間は患者さん本人の責任で身体を見ているわけだから、その間、どうしろと医者が口では言っても、患者さん本人ができないことである場合は、患者さん本人はできないわけです。医者はできないことを平気でいうのです。
『安静にして寝ていろ』なんて、1日休んだら日当が減るという労働者に。借金に負われているのに、家族がいるのに。寝ていろと言っても寝ていられるわけがない。動ける限りは動くのですよ、この人は。「寝ていろ」と言ったから自分の責任が済んだと思うのが医者なのです。「寝ていろ」といって寝てなかったら押さえつけてでも寝かせるまでやらなければ、医者としての責任が足らないというのが私の考えです。医療に対する考えが全然違うから、その医者に強制はしません。しかし、僕はそのつもりで若い人に教えてきたし、実践をしてきたつもりです。
私たちに何ができるか?
望月 原爆という、目も当てられないようなすごい被害を前にして、人間をある意味忘れて、患者さんを振り分けていく方が、楽な部分があったのではと思うのですが、しかし、そこであえて人間というものに立ち返ってみることで、しっかり現実を直視して見てきた、押さえつけてでも寝ろというところまで行くのが責任だという次元までいくことがすごいなぁと思いました。
原爆というのは、ドーンと落ちた瞬間から50年、60年、長い間死ぬまで苦しんでいくというのが怖いことであると感じました。たしかに、落ちたときも怖いけれど、その人の長い人生と心を蝕み続けていくというのが一番怖いなと感じました。そして、今の人たちが、そういう事を忘れてきているし、教える人もいないし、そのことを知らないのもまた、怖いというのがあって、この先また、同じようなことを繰り返すのではないのかと思ってしまいます。
原爆というのは人間が手にするには、早熟すぎた、未熟すぎたときに原子力というエネルギーを手にしてしまって、それをコントロールしないままに使ってしまった。火とか電気とかとは違う歴史のなかで、いきなり簡単に手にできたエネルギーなので、その怖さを、しっかり考え、原子力にたいして人間が成熟していって、考えるようになりたいと思いました。自分も勉強しないといけないし、周りも勉強しないといけない。でも、それを教えてくれる人が周りにいないし、それを自分も体験したわけではないので言えないし。
肥田 あなた方がたとえ、不十分でもそれを教える人にならないといけない、まったく知らないよりいいわけだから、そうなってほしいと思います。
領家 先生が人間を診るというのにこだわり続けたところが印象深かったです。また、原爆や核が他の戦争とは違って『今も人間を殺し続けているのだ』ということを聞いて、本当にその通りだと思いました。
海外の人でも、日本人でも、伝えなければならないときに自分の言葉で伝えられるようになりたいと思いました。まだまだ、勉強不足ですが先生の言われたように、他の人より知っている部分を伝えて行きたい。自分も伝えながらまた勉強して成長していけたらいいなと思います。
肥田 医師になるということは非常に幸せなことなのです。
みなさんは、目の前にある命というものに不十分な人間として対応しながらも、その人に何かを与えて、たえず相手から何かをもらっているわけです。医者というのは、たくさんの人からもらうものを自分の栄養にして、その人がここに生きてきたというものを残して生きていける。そういう医師になろうとすることは、幸せなのだから、その幸せを失わないように一生懸命やっていってほしいと思います。
領家・望月 貴重な、お話ありがとうございました。
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領家由希さん 長崎大学医学部3年
りょうけゆき●東京都出身。大学に入って長崎にきました。趣味は旅行。長いようで短いと言われる学生生活、医師になるための準備期間として興味のあることに積極的に取り組み、さまざまな人との出会いを大切にしたいと思っています。
望月 亮さん 広島大学医学部6年
もちづきあきら●部活は合氣道部。趣味はドライブ、旅行。生物医学的なケアだけでなく、地域の人々の心理社会的なケアも継続的に担うことが出来るプロフェッショナル、家庭医を目指しています。 |
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