民医連新聞

2003年3月1日

「時代」をつなぎ未来へ 青年が探訪する民医連の歴史

同和地区のまん中で人間らしい生活をもとめてがんばった

 同和地域のまん中で、部落差別をなくしたい、と住民と歩んだ和歌山・生協芦原診療所。入職間もないヘルパーの中嶋規美子さんが、組合員・杉山茂子さんと初代事務長・大森米三郎さんに聞きました。

(木下直子記者)

 和歌山に民医連ができたのは、53年夏の大水害がきっかけ。近県の民医連が救援に入ってその存在が知られ、翌年、中之島診療所ができました。

…芦原診療所はどうしてできたのですか?

大森 芦原地区は大きな同和地区でした。開業医はおろか薬局もない無医地区です。部落差別をなくす 目的で大阪の耳原病院、広島の福島診療所などが活躍していたこともあり、「芦原にも民主診療所を」の声はありました。本格化は第二室戸台風(61年)の被 災救援に来た中之島診療所の医療班に接してからです。
杉山 「服も着替えず、ゲタばきで行ける」「貧富の差別なく診てくれる」、「こんな医者やったら欲しい」と要望が強くなりました。薬といえば、なんでも屋で頭痛薬や腹痛薬などが一包単位で分け売りされているだけの地域でしたから。
大森 当時、芦原地区には1500世帯・6000人が住んでいました。貧困者が多くて、周辺の地区の開 業医にかかるのもたいへん、往診も断られる、といったこともあったそうです。いわゆる「医療差別」ですね。同和地区出身者の就職差別は厳しく、働き口の多 くが地域内の皮革工場、精肉業、靴関係、廃品回収、失業対策事業などでした。低賃金で労働条件もひどかった。健康保険のない事業所も多かったですよ。
 診療所発起人の杉山守さん(杉山茂子さんの夫)と近藤富造さんは「失敗したら自腹で弁償」という決心で、一口500円の生協出資金集めに奔走。約500世帯が組合員に。
杉山 診療所は作業小屋を借りて改造。敷地は7.5坪(約15畳)でした。
…えっ? 小さい。
杉山 開院直前に地区のある皮革工場に天皇が視察にくるため、道路拡張で立ち退きにあい、よけい狭くなった。あのとき行政は人が住んでいる道路ぞいの家を「汚ない」と、立ち退きを要求し、「退かないなら隠せ」と紅白の幕を張り、家を隠した。ひどかったね。

開院後のピンチ

大森 62年の6月にやっと診療所が開院。医師はパートで、夕方6時ごろからの夜間診療だけでした。
杉山 開院後すぐ、私たち主婦は毎夕、診療所を掃除し、そのまま待合室に座り、サクラの患者になりました。「にぎやかな方が患者も来てくれるやろ」と私たちなりの工夫でした。開院一週間で本物の患者さんが来るようになりました。
大森 でも、開院直後からえらいことになりました。「無医の芦原に診療所ができた」と新聞に載ったのが、パート医師の職場に知られ、協力がストップになって。患者がどんどん増えて、看護婦も足りなくなるし。
…どうしたんですか?
大森 県立医大に行き、白衣を着ている人を見たら「今晩、うちの診療所に診療にきてくれませんか?」と次 つぎ声かけていった。インターンルームで麻雀している研修医たちに「僕が代わりに麻雀するから、診療所に行って下さい」と頼んだことも。毎日かけずりまわ るなか、協力してくれる医師も少しずつできました。看護婦は日赤の労組員の協力で、入れかわりたちかわりの支援。本当に多くの人にささえられました。
…すごい! 大森さんはそのころ何歳でしたか?
大森 26歳でした。「無医地区に診療所を」と始めたのをそう簡単に閉められない。皮革労働者など地域の底辺の人たち、患者さんが大きなささえでした。
杉山 そういえばあなた、よくうちでご飯食べたね。
大森 安月給でしょ。困ったらご飯を食べさせてくれる家が何軒もありました。

 生協役員の努力で、常勤所長も決まり、診療所の患者数は1日100人を超えました。敷地は7.5坪でした から、道路にも患者があふれ、開院2年で出資金、組合債の運動をして、現在の場所に新築移転(2階建のべ45坪)。無床でしたが、24時間医師を配置。診 療所を中心に地域を改善する運動がすすみました。

これは深刻や!

大森 たいへんな住宅状況でした。全住宅の半分くらいは不良住宅、川辺に古いトタンぶきのバラック小屋が 並ぶ、障子一枚へだて、4畳半や3畳に別べつの家族が住む間借り、皮革工場を改造したベニヤ板囲いのアパートなど、便所も炊事場も共同で、湿気・異臭もあ り、非衛生的でした。
 事務職員は往診について歩き、地域の状況やくらしの実態を思い知りました。「病気にかかりやすいことや、治りにくいのは当然。日もあたらず、狭くて湿気 の多い家にいるから」とか「子どもの学力の低さはこういう住宅の状況からくる」という風に。そして「不良住宅をなくせ」「公営住宅つくれ」の運動は大きく なりました。
 そのうち4畳半1間に家族5人で寝ていて、乳児が窒息死する事件がおき、「これは深刻や!」と、地域改善の運動に拍車がかかりました。不良住宅の写真を添えた請願、何度も市職員に現地を見せたりして。
 私や杉山さんが地元の者でなかったので、親戚や仕事などのしがらみで圧力もかけにくく、声をあげられない人たちの代弁ができた面もありました。「公営住 宅が建てるためなら、何日でも役所に座り込むで」という人たちと診療所職員はいっしょにたたかいました。初めて公営住宅ができたときは、踊りあがって喜び 合ったね。
杉山 安価な牛の内臓ばかり食べる、偏った食習慣だった地域で、八百屋に野菜が置いてなかったほどでした。それを指導して改めるなど、診療所の役割は大きかったですよね。
大森 「保険証があったら診療所にかかれるで」という情報が皮革労働者に拡がり、保険に加入する工場も増えました。診療所は人間らしい生活ができるまちづくりの拠点になったんです。「医師が不安定でも地域に役立ちたい」と考えて、無料法律相談もやりました。

 運動の中心になった診療所を嫌った行政と保守勢力は、開院と同時に近くの隣保館に出張診療所をつくって妨害しますが失敗。五年後、芦原診療所長を抱き込み、近所に開業するようしむけました。

杉山 たくさんの患者さんがその先生についていって、これにはショックで。いまも、この医院の前を通る ときに看板を睨む位よ。棒を持った男たちの脅しにあうなど妨害はそれまでも色いろ受けましたが、「権力は都合の悪いものを潰すためには、どんな手でもつか う」ということは診療所の歴史で学びました。
大森 「民医連の医師」がいないと、診療所はできても民医連の医療はすすまへんということも学びました。その後、生協病院もでき、芦原診療所もリニューアルして、今に至ります。
…同和地区のことをぜんぜん知らず、「驚いた!」という言葉しか出ないです。私が生まれる少し前まで、こんな話があったんですよね。デイの利用者さんたちにも話をきいてみよう。
大森 地域の住宅も道路もきれいになりましたが、悪政が強まるなか、いまも私たちの手の届かない所で、泣いている人がいるはず。診療所はその灯台守として存在していて、職員が思う以上に地域から信頼されてると思います。いま、地域の声は、聞こえてるかな?
…地域で独りぐらしの高齢者が多いですが、そういう人たちをささえるのが私の仕事。がんばりたいです。

(民医連新聞 第1302号 2003年3月1日)

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