民医連新聞

2008年1月7日

全国に青空もどるまで

新たな運動を決意

大気汚染裁判「勝利の和解」

患者ささえた東京民医連・医師団

 一一年におよんだ東京大気汚染裁判。東京民医連と医師団は原告と患者をささえ 続けました。勝ち取った「和解」にもとづき、自動車メーカー七社と道路公団、国、東京都が拠出し、都が今年「大気汚染医療費助成制度」をつくります。原告 と支援者たちは一一月一七日、報告集会をひらき、「見直しの五年後には、より良い制度を求める。成果を全国へ」と新たな決意を固めました。(小林裕子記 者)

 「いまこの時も、医療費の支払いに追われている人が、制度を待ちわびている」。自動車メーカーは解決金わずか一二億円、最後まで謝罪しない態度でした。しかし医療費助成制度は大きな前進です。原告団は「和解」を受け入れました。
 六〇〇人を超える原告の約八割が、東京民医連の病院や診療所に通う患者さんです。原告団長の西順司さんは「東京民医連と最初から協議してすすめたことが 力になった」と言います。多摩地域を含め東京全域から原告が集まり、東京高裁に「面」の大気汚染を認めさせました。
 東京民医連は、ぜん息患者四〇〇人にアンケートし、大気汚染と病気の関係を聴き取り、原告団に加わる人を広げました。主要病院で説明会を開き、医師が患 者一人ひとりに声をかけました。全国にカンパと署名を訴え、原告団に専従者を派遣しました。

患者と励まし合った医師たち

 吉沢敬一医師も「たたかうべきだ」と、患者を一生懸命に説得した一人です。働きかけた原告は約一〇〇人。その人たちを、吉沢医師はほめます。「署名に座り込みに、つらい身体を押して行く。仲間を増やし、ねばり強い人間になっていく」 。そんな人を何人も見てきました。
 石関三枝子さん(54)は第五次の原告です。吉沢医師に原告になることをすすめられました。「あの出会いがなかったら、私は今のように生きいき暮らして いなかったと思う」。前の医師からぜん息がどんな病気か知らされず、ひどい発作を起こし、「これは何なの?このまま死んでしまうの」と苦しみました。原告 の仲間と知りあい、一人でジクジク考えるのはいけないと思いました。座り込みや交渉に点滴しながら臨んだこともあります。仲間と使命感にささえられまし た。
 松永伸一医師は「患者のたどってきた人生、その中で裁判のもつ意味をじっくり聞いた。民医連と医師を信頼していることがよく分かった」。共感が生まれました。

「患者側の医師でよかった」

 村田嘉彦医師は、原告およそ三〇〇人のカルテを見て、意見を記しました。「被告側の医師は、と にかく違う病気にしたい。ぜん息ではなく心臓が悪いとか、結核の跡があると書いてくる。そうでないことくらい専門医でなくとも分かる。なのになぜ… と悲 しくなった」。一例一例、データで、書面の中で、たたかいました。
 弁護士に頼まれ、外国の文献を何本も翻訳しました。自宅で必死に作成した書類を、被告側の弁護士に「意図的に誤訳している」と言われ反論しました。「で も文献は興味深かった」。村田医師は言います。「患者の側に立つ医者でよかった。一番にそう思う」。
 井上修一医師もふり返ります。「今とりくんでいる職業性疾患と大気汚染疾患は共通点がある。患者の背景にあることに関わり、社会的に提案しなくては」。社会医学の視点を磨く経験でした。

全部の患者が救われるまで

 東京都がつくる助成制度の対象はぜん息だけです。五年後の見直しでは、慢性気管支炎や肺気腫など、今回除外された病気も対象にさせたい。生活補償まで含んだものにしたい。これが、患者の切実な願いです。
 石関さんは「汚れた空気を吸って苦しいのは、どの病気も同じ。なのに差別するなんて。公害病を幅広く認定する制度をぜひ復活させたい」。仲間への思いがにじみます。「そのためには、今から運動しなければ」。
 西さんも「制度ができたら、申請運動を起こし、東京で公害患者会を三〇〇〇人規模にしたい。大気汚染は首都周辺の県に及んでいる。自動車メーカーの拠出 で全国レベルの被害者救済制度がどうしても必要」と語ります。国や都に「公害は終わった」とは言わせない。患者も医師たちも新たなたたかいの決意を固めて います。

(民医連新聞 第1419号 2008年1月7日)

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