憲法を守ろう

2006年2月20日

9条は宝 発言(12) 薬品医材業者が「会」つくる私も活動開始宣言

 大阪では、大阪医療事業協同組合(OMEC)が中心となって、医薬品卸、医療機器ディーラー・メーカー業者から世話人を募り、昨年の一〇月一九日 に「OM9条の会」を結成しました。今回、その世話人の一人で、結成のつどいで司会も務めた「株式会社 スズケン」(本社‥名古屋市)の赤松幸三さんで す。

 私は広島県府中市で生まれました。物心がつく前から、「八月六日午前八時一五分」は、家族とともに黙祷(もくとう)をしていました。今でも、たとえ電車の中や仕事中でもしています。目を閉じるまではしませんが、毎年欠かさず続けています。
 小学校三年生のころ、親父の仕事について、兄と私の三人で広島平和公園に行きました。白く平べったい建物を見て、親父に「あれ何や?」と聞きました。し かし親父は、「今日は行かんとこか。一人でよう寝ぇへんようになる」と、そのまま帰りました。その建物は平和記念資料館で、六年生の修学旅行で初めて訪れ ました。実際、昼食がノドを通らないくらいショックだったことを覚えています。

「原爆」に遭遇して

 黙祷は続けていましたが、あくまで他人事で、自分とは結びついていませんでした。
 私と原爆が結びついたのは、二八歳の時です。結婚を決意し、相手の両親にあいさつするため、会うことになりました。彼女の父といろいろ話す中で、「出身 地は?」と聞かれ、「広島です」と答えました。すると、それまでひと言も話さなかった彼女の母が「原爆はどうやったんですか?」と。そう聞かれた時、本当 に衝撃を受けました。「爆心地から遠く、両親とも広島市内に行ってない」と説明すると、安心したようでした。
 もし広島市出身やったら、この結婚は少しややこしい話になっていたかもしれません。同時に、広島出身の同じ世代の人は、今、この「原爆=被爆者という差 別」に遭遇していて、どうしていたんやろうか、と思いました。その時、自分と「原爆」が一つに結びつき、黙祷している意味がつながった気がしました。

広島の血がワクワクさせるんかな

 昨年、「OM九条の会を結成しよう」と、誘ってもらいました。考えるより先に、自然に参加していました。「OM 九条の会 発足のつどい」には、幅広い世代から約三七〇人も参加し、大成功でした。「受付ぐらいは」と思っていましたが、いつの間にか司会に…。学園祭の ようなノリですね。それ以上に「広島の血」がワクワクさせるんかな。
 二〇代女性のアンケートには、「改憲を知りませんでした」と。若い人には「深く理解」しなくてもいいから、「私たちが何かをすれば、変わるんだ」と、広 く浅く活動を広げてほしいと思います。ある年配の社長さんは、「孫を戦場に送りたくない」と、参加を決意されました。受付をしてくれたのは、業界でも有名 な社長さんです。
 今年の年賀状はこんな文面にしました。「昨年から憲法九条を考えるようになりました よく九条は現実的ではないと言う人がいます わずか数行の言葉が  世界第二位の軍事力を 一切使い物にならない様に封印しているのが憲法九条 非常に現実的な力があると考えます この現実を信じて 九条を守る草の根活動 を始めまました」、講演会で小森陽一先生が語られた一節です。私の今年の活動開始宣言ですかね。
「会」でも、今年を「行動の年」にしたいと思っています。
 四月一九日には、大阪・中之島中央公会堂で「音楽と学習・交流のつどい」を行う予定です。

(民医連新聞 第1374号 2006年2月20日)

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