民医連新聞

2008年1月21日

9条は宝 発言(32) 一人で8800筆若者が応えてくれる

蓑輪 喜作さん(78)
 1929年、新潟県東頸城(ひがしくびき)郡松代町生まれ。16歳から村の小学校用務員として44年間勤める。66歳の時、村の過疎化と高齢化に勝てず、次男が住む東京都に移住。「九条の会・こがねい」会員

 「九条おじさん」と呼ばれている男性がいます。東京都小金井(こねい)市に住む蓑輪喜作(みのわきさく)さん(78)。蓑輪さんは、〇五年一二月から「九条を守ろう」の署名を毎日歩いて集めています。その数は八八〇〇筆を超えました。

昭和を生きた人間

 「じいちゃん、僕らのためなんだね。二〇〇〇筆めざしてがんばってよ」 。署名が一〇〇〇筆を超えたころ、スケボーをしていた若者が言った言葉です。今でも忘れられません。
 〇五年一一月、地域に「九条の会・こがねい」が発足しました。これがきっかけで、署名を集めるようになりました。私は戦争体験者で、あの昭和を丸ごと生きた人間ですから黙ってはいられなかった。使命感で始めました。
 まず、署名板を小脇に抱え、近隣から各戸訪問しました。五カ月間、一〇の町内を歩き回りましたが、インターホン越しに断られ、門前払いの毎日でした。戦 争を知らない人が圧倒的に多い…。月に五〇筆ほどしか集まりませんでした。
 五月の蒸し暑い日、このままでは体がもたないと思い、各戸訪問を止めて、家の側にある武蔵野公園で集めることにしました。そこは大きな公園で、スケボー をする若者や犬と散歩する人、休日には都外からバーベキューをしにくる家族もいて、人が多く集まります。
 それに公園では、インターホンとは違って顔が見えるし、みんな話を聞く時間があるのです。一一月三日の原っぱまつりには、一〇〇〇人くらい集まっていて、一時間で八〇筆集まりました。
 この二年二カ月で、二万人以上の人と九条のことを話しました。
 一番、署名してくれるのは若者です。私が「戦争になると、君たちが軍隊にもっていかれる。その前に阻止したいと思ってね。私の問題じゃなく、あなたたち の問題。経験した人間として伝える義務があるから」と話しかけると、ほとんどの人が署名をします。
 「うちの兄ちゃんは自衛隊。九条があるから守られている」と話した若者がいました。アメリカ人の家族にお願いしたら、「主人は現役軍人で名を出せないけ ど、私だけなら」と、奥さんが署名してくれました。「アメリカも戦争が好きなのは上だけで、国民は反対している」と。

署名にはまり込み

 でも、「北朝鮮が攻めてきたらどうする? 日本だって軍隊を持てばいい」と言う人もいます。その人 にも、戦死者の半数が餓死だったことや、激戦地に行かされた友人のこと、満州から逃げ帰った女性のことなどを話しました。軍歌を歌ってみせたこともありま す。それでも署名をしてくれない人には強制せずに、「国民投票になったら、私が話したことを思い出して」と伝えます。
 先日は、五~六歳の男の子が「火垂(ほた)るの墓」のテレビを観たそうで「戦争反対。僕の名前書いて書いて」と母親にせがみました。「戦争のこと教え て」と、家に訪ねて来る人も増えました。九条を暗記した小学生もいます。
こんな母子や子どもたちがいるから、暑くても寒くてもまた署名に出よう、とはまり込んでいます。

9条守り抜くまで

 私は新潟で生まれ、育ちました。国民学校では天皇のために死ぬことを誓わせる教育で、木刀や薙刀(なぎなた)などで人を殺す訓練ばかり。来る日も来る日も戦争、戦争で勝つための毎日でした。
 村の男はみんな兵隊にとられ、私たち子どもが雪掘りをしたり、石炭を背負って運びました。雪の降る中、足から血を流しながら運んだことを思い出します。
 私は硫黄島の通信兵になるため、逓信(ていしん)講習所に行くことになっていました。しかし、豪雪のため郵便が遅れ、面接に行くことができませんでした。第二期の八月まで待っていた時、終戦。一六歳でした。
 誰が再び戦争をする国になるなどと思ったでしょうか。どんなことがあってもあの時代には戻さない。
 敗戦直後も空腹の毎日でしたが、長い間続いた戦争からやっと解放され、平和憲法や教育基本法の制定に、体はやせ細ってはいても、目だけはキラキラ輝くようで明るかったものです。
 今は食う物はあっても先が暗い。こんな世の中、長く続くはずがありません。人生最後のつとめとして、明日も署名板を持って歩きます。九条を守り抜くまで生きますよ。

(民医連新聞 第1420号 2008年1月21日)

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