民医連新聞

2008年8月4日

福田さん! 決断して 原爆症の申請者すべて認定を

 広島・長崎忌の八月、被爆者が待ち望んでいることがあります。福田首相に「原爆症の認定行政をあらため、全員を救済する」と表明 してほしい。認定を求めて被爆者三〇六人がたたかっている集団訴訟で、七月一八日に出た大阪地裁判決(第二次)でも国は敗訴。これ以上の裁判引き延ばしは 許されません。原告の被爆者と支援する大阪民医連の職員に聴きました。(佐久 功記者/小林裕子記者)

線引きは誤り

 「自分の病気が原爆のせいでないというなら、何を原爆症というのか」。こういう思いで、中ノ瀬 茂さん(73)は集団訴訟に加わりました。一〇歳のとき長崎で被爆。父を軍属に取られ、母を亡くし、弟とは別の親戚に引き取られました。弟に会いに行く途 中、強い爆風に飛ばされました。空は真っ黒。翌日、食糧を求めて長崎駅に行くと、黒こげの遺体が…。
 被爆直後、下痢や脱毛に。その後も体調が悪く、炭鉱で働きましたが、きつい仕事はできず坑内の保安係でした。大阪に転居、舌ガン、肝炎になりました。いまも午後は横になるような生活です。
 ところが、舌ガンの原爆症申請が却下(二〇〇二年)。茂さんの被爆地点は爆心から約四㎞。長崎駅も二・三㎞。当時の基準では「原爆症は起きない」とされる距離。〇三年、提訴しました。
 「本当は、妻のほうを原爆症と認めてほしい」。茂さんは早苗さん(72)を気遣います。早苗さんも被爆者で体調は不良です。
 一五~六歳だった兄が爆心地近くで即死。座った形で黒こげでした。友人七人との区別がつかず、「結局、遺骨の配給だったとです」と早苗さん。若いときか ら貧血で、妊った四人の子の一人は流産、三人は早産で、うち一人は育ちませんでした。

国の責任を問いたい

 息子さんと孫も悪性腫瘍や紫斑病になりました。「親父は病気だけを子どもに残した」なんて言われたくない。原爆に対して何もしない。それではいけない。茂さんが訴訟に臨んだ理由の一つです。「自分のため、妻や子のため。自分の国に対するたたかい」と言います。
 長崎の地形はすり鉢状です。その上空で炸裂した原爆が、全体に影響しないわけがない。距離や病気の種類で機械的に線引きするのは誤りだと茂さんは考えます。
 家族で長崎の原爆資料館を訪れたとき、夫妻は、あのときの臭いと皮膚をぶら下げた人の姿がよみがえり前にすすめませんでした。
 思い出したくない事実を、茂さんは法廷で語りました。「戦争した国の責任は重い」と思うから。
 七月一〇日、突然、茂さんに大阪府から連絡が。「新しい審査の基準」で認定されたのです。しかし、茂さんは納得できません。「首相には、全員を認定して、胸を張って広島と長崎にお参りに来てほしい」。

被爆者の思い受けとめ支援

大阪民医連

 大阪地裁の勝利(第一次・〇六年五月)のあと、「原爆症の認定申請をしたい」という相談が増えました。そこで、近畿訴訟弁護団は支援団体とともに「被爆者なんでも一一〇番」を開始。六月一日は二回目の実施です。
 大阪民医連からは耳原鳳(みみはらおおとり)病院の看護師・中園純(すみ)子さんや医師、SWが参加しました。
 今年五月、中園さんは大阪高裁の判決(第一次)を聞いて「ハッ」としました。「鉄欠乏性貧血じゃ無理かも…」と心配した被爆者が勝ったのです。だったら 「白内障で申請したい」と相談に来た人も認定の対象ではないか。「難しいと思う…」と言った自分は、「放射線起因性の白内障」に限定する行政の枠にはまっ ていたのでは? 枠内の人には積極的に申請をすすめてきたけれど、もっと広く被爆者の思いを受け止めなくては。「自分の中で姿勢の切り替えをやっている」 と言う中園さん。もう一度、その人に連絡を取ろうと考えています。

絶対に勝ちたい

 真鍋穰(ゆたか)医師(阪南医療生協診療所長)は語ります。
 「自分のような普通の小児科医が法廷で証言することはないと思っていました。ところが、大阪地裁で証言を頼まれ、入市被爆者三人を担当しました。国は、 直接被爆でないから脱毛や出血など急性症状は起きないと決めつけました。被爆者の実態を見ない姿勢は科学的でない。裁判で被爆者は思い出したくもない、心 の奥底にしまっていたつらい体験を話す。嫌な質問もされます。決してお金のためじゃない。それが裁判を通じてわかった。専門外なんて言えない、絶対に勝と うと思いました」。
 耳原鳳病院・相談室の戸田輝子さん(SW)も、中園さんとともに被爆者の相談窓口になり、被爆者の体験や思いを聞く機会が増えました。「一一〇番」に新人や若いSW仲間、五人で参加しました。
 この日、テレビが報道せず、相談は前回と違い少数でした。そこで空き時間に、被爆者でもある小林栄一医師(此花(このはな)診療所長)や、弁護士から じっくり話を聞きました。「戦争と原爆の傷の深さをあらためて考えた。仲間もそういう感想を寄せました」と戸田さん。SWたちは七月二六日の「一一〇番」 にも参加を決めています。

(民医連新聞 第1433号 2008年8月4日)

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