事業所のある風景

2006年3月15日

福井/光陽生協病院 組合員、地域の人たちの力で 新病院建設とクリニック改修

福井にも安心してかかれる診療所を

 「福井県に民主診療所をつくる会」が発起されて3年後の1978年、光陽診療所が設立されました。光陽診療所の開設は、すべての都道府県に民医連の医療機関ができる画期的なことでもありました。
 当時の鈴木格一理事長は、診療所について「一口で言うとですね、働く者の立場に立った医療機関ですね。ふだん着のまま、親切に診てもらえます。そして、 その背景となる仕事のことやくらしのことも相談できる病院です。それはわたしたちの診療所だからです」と語っています。
 地域の健康センターとして「入院できる設備を」と、7年後には光陽生協病院となりました。そして更に20年後の2005年9月、新病院建設と旧病院のク リニック化に向けた改修を、組合員・地域の人たちの力で成し遂げることができました。

福井の歴史

 地図上に位置する福井県の場所を、正確に知っている人は半分ほどでしょうか。美人の産地も、なぜ か一県おきで、秋田美人の次は新潟美人、次は加賀美人、京美人となっています。はざまにある福井などは目立たない存在で、かつて裏日本といわれた頃は、天 気予報が流れるたびに嫌な思いをしたものです。
 さて、福井市は越前海岸を含む広い地域で、県の北部に位置しています。戦災と震災で焼かれ、フェニックスの街とも呼ばれています。古い建造物は少ないの ですが、そこかしこに昔の名残りをしのぶことができます。
 病院の近辺にも、橋本左内など幕末の志士が秘密の会合を開いた庵として知られる丹巌洞(今は料亭として利用)や、旧福井城の御本丸が移築された瑞源寺があります。
 福井市を南に下ると、紫式部が暮らした旧武生市(現在は越前市)があります。かつて国府があった武生は、海岸沿いの河野村(現在は南越前町)との間の往 来が盛んでした。古道に足を踏み入れると、番所跡や石仏が往時の賑わいをしのばせてくれます。西街道(俗称馬借街道)と呼ばれたこの道は、万葉集の歌人が 泣いて通ったとも言われています。また、宇治拾遺物語の説話にも、すでにこの街道が記載されているほど古い道です。都と大陸をつなぎ、戦国時代の武将が馳 せた街道は、昭和30年代までは、子どもたちが海水浴に行くための一番の近道でもありました。

医療・介護・福祉のネットワークめざし

 病院のある旧湊二区は、診療所ができるまで、医科の医療機関が一つもありませんでした。いざというときの不安を感じていた地域の人たちにとって、診療所開設は大きな期待となって迎えられました。
 地域の信頼を集め、開設から27年が経過しました。このたび、新病院、クリニック、単独のショートステイ、デイケアと、一気に開設にこぎつけました。急 性期に対応する一般病床(40床)、ゆっくり療養できる療養病床(17床)、介護保険対応のショートステイ(24床)とデイケアに機能分化し、地域の願い にこたえて、子どもからお年寄りまで、すべての人たちが安心できる医療と介護のセンターとなって完成しました。他の医療機関やこれまでつながりのない地域 から、大きな期待が寄せられるようになりました。
 困難は山積みですが、かつてある哲学者が「民医連は大海の中の一粒の真珠」と言った言葉を胸に、地域・共同組織とともに、なくてはならない地域のセン ターとして、発展させてゆきます。
光陽生協病院 事務長 鈴木広江)

「民医連院所のある風景」 『民医連医療』2006年3月号.No.403より

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