民医連新聞

2009年7月20日

第10回 共同組織活動交流集会 リレートーク あらゆる活動を共同組織とともに

 共同組織の多面的な役割を示すリレートークが行われました。
 北海道、山形、東京、大阪、熊本、五人の発言の要旨を紹介します。

「後期高齢者医療制度」中止・撤回のたたかい
東京・三多摩健康友の会国立支部

 三多摩地域には三〇市町村があり、人口は四〇〇万人です。当友の会は二万人以上の会員がいま す。後期高齢者医療制度廃止をめざすたたかいでは、会員数の三倍以上にあたる七万七〇〇〇筆の署名を集めました。昨年、秋の月間前に活動者会議を開き、署 名と仲間増やしを呼びかけ、運動をすすめてきました。旺盛な学習活動や講演会を展開し、各地で「国保を良くする会」など多くの団体に呼びかけ、かつてない 共同行動の広がりをつくりました。そして二八自治体で連絡会が結成されました。全都的な集会や国会要請行動にも全力でとりくんできました。今後は日の出町 で始まった「七五歳以上の医療費無料化」を全都に広げる運動や署名をすすめていきます。

地域まるごと健康づくりと仲間づくり
大阪・医療生協かわち野

 当医療生協は一三年連続黒字です。〇八年度は特定健診導入で危ぶまれましたが、組合員・職員の 奮闘で健診内容も料金もそのままで黒字を確保しました。秘訣は組合員の休みない奮闘です。毎月が行事、年中が「月間」や健康づくりです。地域住民の五~七 割に血圧測定・尿検査などの健康チェックを行っています。また、六〇歳無料健診を〇八年度も継続、結果は一万八〇〇〇人の健診を実施することができまし た。地域の強い要望と期待、そして組合員のパワーを感じています。

すべての水俣病被害者の救済を目指すたたかい
水俣健康友の会(不知火患者会原告団長)

 水俣病はまだ終わっていません。私は子どものころ、当時「奇病」といわれていた水俣病患者さん が入院する病棟で「劇症型」と呼ばれるひどい症状を見ました。それが水俣病だと思ってきました。しかし、それから長い間の地道な研究で、劇症型を頂点にし て、その底辺には感覚障害を主な症状とする膨大な数の水俣病患者が存在することがわかってきました。慢性の水俣病患者は見た目にはわからないが、正真正銘 の水俣病の被害者です。私もその一人です。怪我をしても痛みを感じず、熱湯をかけても熱くなく、食事の味もわかりません。水俣協立病院で水俣病だと診断さ れても信じられなかった。医師の話と自分で学習してようやく受け入れることができました。
 私たち被害者は「ノーモア・ミナマタ」の実現めざしてたたかっています。九月の水俣大検診への協力と早期全面解決のために支援をお願いします。

医療生協での無料低額診療事業の取り組み
山形・庄内医療生協

 当生協では四月から「無料・低額診療」を開始しました。格差と貧困が広がり、生活困窮世帯が急 増。病気になっても医療費の一部負担が払えないために受診できずに、命を落としたり、症状を悪化させたり、治療を中断しなければならない人が増えていま す。放置すれば住民の命と健康はいっそう深刻な事態に追い込まれます。そのために生活困難で医療費が払えない人を対象に、この事業を始めました。
 私たちは「無料・低額診療」の意義について役職員や組合員で学習してきました。そして記者会見も行い、パンフレットやステッカーも作成して、誰でも安心 して受診できる医療機関として、地域に知らせています。また県内の他の病・医院にもこの事業が普及するきっかけになればと思います。

地域の医師を地域から育てる試み
北海道・宗谷健康友の会

 私と民医連は、一九六八年に教職員組合が健康調査の分析を北海道民医連に依頼してからの付き合いです。その後、民医連の病院を宗谷につくろうと運動し、一九九五年にようやく宗谷医院が開設されました。今は友の会を中学校区ごとにつくって活動しています。
 〇八年二月に稚内の子どもたちの進路指導の一環で始まった「進路探検・医師講座」が今年も開かれ、北海道民医連の若い研修医が積極的に講師になり、子ど もたちに夢を語ってくれました。医学生の時、宗谷医院に実習に来て、地域にささえられていることに感動し、研修医になって帰ってきてくれた医師もいます。
 人間の持つ生命力を引き出すという点で、医療と教育は似ています。職員が患者さんや地域の人との連携を大事にして、民主的な医療人に成長するための架け橋になるのが、友の会の役割だと思います。

 

動く分科会
原爆碑めぐり

 動く分科会は、閉めきられた「諫早(いさはや)湾見学」と「原爆の碑めぐり」の二つが行われました。

 碑めぐりの分科会では、三つのグループに分かれて、爆心地公園や原爆資料館を中心に、原爆碑や被爆した浦上天主堂などを回りました。
 福岡・大牟田市から参加した「ありあけ健康友の会」の女性会員は、「アメリカが長崎に原爆を投下した日、大牟田からも、黒ぐろとしたきのこ雲が見えまし た。あの恐ろしさは忘れることがない」と話します。あらためて平和を訴える原点にしたいと、この分科会を選びました。
 長崎平和推進協会の平和案内人である今道忍さんは、長崎県健康友の会連絡会の副会長です。自身も子どものころに被爆しました。
 爆心地公園の脇を流れる川沿いには、当時の瓦礫などの地層をそのまま保存している場所があります。今道さんの「この近くで、防空壕にいて、一人だけ生き 残った人がいる。その方はいまも健在です」の説明に、参加者は一様に驚いていました。
 公園では、行政がつくった母と子の像について、今道さんが「きらびやかな装飾で、被爆者の気持ちをわかっていない。爆心地に建てる予定だったが、被爆者 の反発ではじに追いやられた」と説明。参加者からは「私たちが見ると、そんなにひどい像とは思わない。説明を聞いて、当事者でしかわからない被爆者の思い を知った」との声があがりました。
 浦上天主堂の近くの白山墓地も訪ねました。浦上地区のカトリック信徒一万二〇〇〇人のうち、八五〇〇人が原爆で死亡しています。墓碑銘には「原爆死」と 刻まれたものが多く、なかには二歳、四歳の子どももいました。「一家 原爆逝去」と七人の名前が書かれた墓碑に、参加者は静かに手を合わせました。
 鹿児島医療生協で理事を務める田中かすみさんは、「原爆は昔のことと思いがちだけど、今につながっていることを実感しました」と言います。
 医療生協では、子どもたちといっしょに、戦争体験を聞いたり平和について考えるとりくみをしています。「いくら病気を治しても、戦争があったら命を落と してしまう。平和でないと、医療も成り立たないし、生きることはできません。医療生協で重視している平和の活動にやりがいを感じます」と田中さん。
 田中さんと同じ理事の松浦真由美さんは、「修学旅行で長崎に行った子どもが、『平和は大事だね』と言っていた。今度は自分の足で歩きたいと思って参加し ました。現に起きたことを肌で感じ、今道さんの説明で、長崎の人の思いも伝わりました。この体験を伝えていくことが大事ですね」と話していました。

セッション
新綱領草案を考える
キーワードは「人権」

 セッション「民医連の歴史と『綱領改定草案』シンポジウム」では、長瀬文雄事務局長と共同組織連絡会の磯野博康さん(長野)を座長に、パネラー四人が発言しました。

綱領バージョンアップ

 大山美宏副会長が改定の理由と「草案」を説明。また、川崎事件の教訓から「人権」を新綱領に入れるべき、憲法九条を改悪する危険な動きと社会保障が歪められている現状から、新綱領で「日本国憲法の理念を高く掲げ」ることは情勢にかなうとのべました。
 肥田前会長は、自身が「民医連に来た理由」を語りました。東大闘争の中で「大学病院はなぜ生活保護の患者を診ないのか」と交渉する中、それが「国の方針」と知り、差別をしない民医連へ。
 また、現綱領のもとで民医連運動と事業の発展した一方で、山梨勤医協の倒産や同仁会の経営危機、川崎や京都で起きた医療倫理問題から教訓を得たとのべ、綱領バージョンアップの意義を語りました。

労働者と貧しい人の病院

 下川忠範さん(福岡・親仁会院外理事)は、三池闘争(一九五九~六〇)と爆発事故(六三年)で の支援活動を語りました。当時、たたかいを医療面から全面支援した「米の山病院」がいまの親仁会の母体で、六五年に民医連に加盟。「労働者と貧しい人の病 院」の精神を引き継いでいると話しました。

「差額ベッドない」記事から

 領家由希さん(長崎民医連研修医)は高校時代に見た朝日新聞の「差額ベッド代をとらない病院」 の記事が「最初の民医連のイメージ」でした。長崎の奨学生になり、ニューヨーク行動(NPT)や反核医師の会に参加し、さまざまな経験の中で、地域に密着 する民医連を知りました。民医連の医学生向け雑誌『メディウイング』の取材で肥田舜太郎医師から「命にこだわる医師になってほしい」と言われたことが印象 深く、民医連にこだわって自分の確信を深めていきたい、と語りました。

「力になる綱領を」

 フロアから発言が多数出ました。「現綱領の『働くものの』の部分を残して、と言いたくて参加し た」(石川・友の会員)、「民主的運営とか非営利・共同のような多義な言葉は検討を要する。職員がとことん議論して、世の中や地域を変える力になる綱領を 決めてほしい」(神奈川・友の会員)、「草案から志の高さが伝わり感激。医療生協から意見があると聞くが、職員がよいと思うならよい」(長野・組合員)、 「新入職員にわかりやすくするのは賛成」(千葉・職員)、「僕らは共同組織として協力する。民医連の職員は議論を尽くして綱領を自分のものにしてほしい」 (静岡・友の会員)などでした。

「人権」運動の発展を生かせ

 肥田舜太郎さんもフロアから発言しました。「現綱領を定めた当時、社会的に『人権』の意識は低 かった。被爆者運動も『人権のため』より『気の毒』という同情が強かったように思う。私は一九八三年にドイツで『第二次大戦の特徴は、アウシュビッツと原 爆で、老人、女性、子どもを殺し、人権を侵したことだ』と聞いてハッとした。いまは日本も、人権を自覚し育て、その中身が座ってきたと感じる」。
 長瀬事務局長は、この日の意見も参考に八月の評議員会にあらためて改定案を出すと表明しました。

(民医連新聞 第1456号 2009年7月20日)

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