憲法を守ろう

2006年9月18日

9条は宝 発言(19) 日赤従軍看護婦になり戦争に翻弄(ほんろう)された15年

 津村ナミエさんは元日赤従軍看護婦です。赴任した満州で敗戦を迎え、ソ連軍の捕虜に。その後は中国に抑留され、一五年近くも帰国できません でした。日本の民主化と平和を願いながら看護師として働き続けました。「憲法九条を変えてはいけない」という思いは、戦争中の辛い体験にもとづいていま す。

 私が従軍看護婦になった昭和一九年は、戦争一色でした。家には七人兄弟がおり、弟二人が幼く、他は女だったので「お宅は誰かご奉公しているのですか?」 と言われるたび、父は「家は女ばかりで役立たずです」と肩身が狭そうでした。それが悔しくて、日赤が看護婦を募集したとき志願したのです。
 三カ月間、ガスマスクをつけ担架で患者を運ぶ訓練や、毒ガスの知識など戦時救護の教育を受け、四月に家に戻り、七月に召集令状が来ました。兵隊と同じ赤 紙です。母は「なぜ女の子までが戦地に行くのか」と泣きました。
 香川からは看護婦二〇人と婦長一人が、満州・延吉(えんきつ)の陸軍病院に赴任しました。朝鮮民族が多い町で、日本人は敬遠されていました。私たちが一 年に一回だけ許可され、町に出るときは、現地の人は私たちを避けて家の中に入ってしまいました。兵士はよく外出し、行き先は慰安所だったそうです。

結核で死を待つだけの兵士

 最初は、軽症の結核患者を担当しました。温湿布用に、毎日大きな軍用バケツでお湯を運びました。長い廊下で上官 や婦長に会うたび立ち止まり敬礼していたら、お湯が冷めて兵隊に怒られ、また暖め直しに行く。でも、敬礼をしなければ婦長から叱(しか)られたものです。 重症の結核病室を担当したときは、血や膿(うみ)の混じる痰がいっぱいの痰つぼを素手で洗いました。患者は死ぬのを待つだけでかわいそうでした。食事介助 や排便の世話など全部しました。手術室勤務も半年経験しました。
 翌年の八月、ソ連軍が来るとの情報が入り、講堂に集められ、直立不動で天皇のラジオ放送を聞き、日本の無条件降伏を知りました。ある日、婦長が赤い薬包 紙の青酸カリを配り、「いざとなったら、これで死ぬんですよ」と。私は腹が立って、「死んでたまるか。絶対に生きて帰ろう」と決心しました。

死体を埋葬する場所もなく

 病院はソ連軍に接収(せっしゅう)され、そこに日本兵や満蒙開拓青少年義勇軍の少年らが続ぞくトラックで運ばれ てきました。その中の何万人もがシベリアへ連行され、使役(しえき)され、死亡したのです。ソ連軍が武器のほか食糧、医薬品などを没収したため、病院の食 事は、魚粉(ぎょふん)、油かす、豆かす、コウリャン、トウモロコシです。栄養失調、下痢、そして伝染病が蔓延(まんえん)しました。特にシラミが媒介す る発疹チフスはひどく、庭に大きな釜を据え、衣服を煮沸し、毛髪を刈り入浴させ、やっと下火になりました。
 毎日、数十人が亡くなりました。薪がなくて火葬ができません。防空壕に運び雪をかけ埋葬しました。零下四〇度では、すぐ凍ってしまうのです。
 義勇軍の一五、六歳の子は特に哀れでした。やせ衰え、多くは先に死にました。看護婦はみな泣きながら埋葬しました。
 防空壕がいっぱいになると伝染病棟に運び、ついには渡り廊下に遺体を積み上げました。そこも埋まり、ソ連軍が雪解け前にブルドーザーで原野に大きな穴を 掘り、埋葬しました。その数も名前も今となっては知るよしもありません。
 だから、靖国にいる人はほんの一部。首相の参拝はとんでもない。今も原野に眠る多数の兵士、日赤の看護婦たちを思い怒り涙します。

何のための戦争だったか

 ソ連が一年で引き上げ、病院は中国に引き渡されました。命ぜられるまま働いていたある日、中国の政治委員が「あ なた方は何で中国に来たのか」と聞くのです。「戦争の傷病兵の看護のために来た」と答えると、「何の戦争だったか分かりますか。日本の帝国主義が中国や朝 鮮を侵略した戦争です。その手先になって、あなたはここへ来た。よく考えて下さい」と言われ、びっくりしました。
 延吉で香川の仲間四人が亡くなりました。私は結核などの病気にかかりつつ生き延びました。その後、朝鮮戦争が起きた時は、中国の奥地に移され、中国人義 勇兵の負傷者を看護しました。米軍の火炎放射器で眼や唇、粘膜まで焼かれた傷は治りませんでした。
 やっと日本に帰れたとき、すでに、母は亡くなっていて、父が待っていてくれました。
 私なりに平和と民主主義のために精一杯がんばってきました。でもまた危険な方向に向かっています。九条は世界に誇る日本民族の宝。力を合わせ、死守しようと声を大きく訴えます。


 津村(つむら) ナミエさん(看護師)

 1922年、香川県生まれ。1944年、日赤従軍看護婦として延吉(えんきつ)陸軍病院に赴任。敗戦後、ソ連軍捕虜、中国抑留を経て1958年に帰国。1982年まで看護婦として地域の病院に勤務。「日赤9条の会」および「入間9条の会」の呼びかけ人の一人。

(民医連新聞 第1388号 2006年9月18日)

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