医療・福祉関係者のみなさま

2010年9月6日

診察室から 8月の診察室

「暑いねー。こんな中で原爆にあって、大変やったろうね」と、今年も戦争を思い出す患者さんとのあいさつが交わされる季節が来た。「終戦の時は○○さ ん、どうしとったん?」とちょっと聞いてみる。いつもお腹がすいていて、トンボや蛙も食べたこと、身内の戦死や病死、集団疎開のこと、戦地でのことを聞か せていただく。
 ある患者さんは、「お父さんも死んで、一人ぼっちになって今年は心細い夏や」と。「子どもさんはおらんかったけ?」と聞くと、「おらんのや」。「兄弟 は?」「物心ついたら日本人の家で暮らしてたやろ。両親もわからん。戸籍もない。結婚してから、自分がどうも朝鮮から戦争中にどうにかして日本に連れてこ られたってことがわかったけど、親戚がおるんかどうかもわからんよ」。
 私は戦争を知らないけれど、八月の診察室で患者さんから聞かされる話は本当に臨場感があり、戦争は六五年経った今もなお、多くの人びとの生活と人生につながっていると思い知らされている。
 八月一五日に生まれた小学生の息子は、誕生日にいつも祖父から「今日は終戦記念日でなあ…」と当時のことを聞かされている。自然と「終戦の日が誕生日で す」と自己紹介しているようだ。その下の三歳の息子は、当院最高齢、八四歳の医師が九平(九条で平和をという意味)と名付けてくれ、はじめはいじめられな いかと心配したが「九ちゃん」「九ちゃん」と誰からも親しまれて育っている。
 私は今、六五年前の戦争でつくられた毒ガスが、日本の寒川で、神栖で、中国のチチハルで、子どもたちや若者を傷つけ健康被害を引きおこしていることにか かわっている。この現代に、現代の人間が受けた戦禍(か)だ。子どもたちは高次脳機能障害や発達障害を起こして人生を狂わされ、大人たちもみな働けず、後 遺症と向き合っている。民医連の医師としてかかわれたことにやりがいを感じる一方、日本政府がことごとく責任はないと主張し、医療と生活の保障を拒んでい ることに怒りを感じる。
 八月は患者さんから戦争の話を聞いて、そしてそれを子どもたちにしっかり伝えたいと思う。
(大阪・東大阪生協病院、橘田亜由美)

(民医連新聞 第1483号 2010年9月6日)

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