民医連新聞

2007年7月16日

9条は宝 発言(27) 戦争体験者が託した9条 命がけで守りたい 元ボクサー(ウエルター級チャンピオン)の豆腐屋さん

 天文学者をめざして勉学にはげんだ若者が、大学卒業後、実家の豆腐屋を切り盛りしながら、ボクシングの世界へ。「日本」チャンピオンとなった彼が次にめざすのは「世界」平和です。

 僕が九条に関心を持ったのは、二年前の原水爆禁止世界大会でした。ボクシングもケガで一段落。 平和活動をしている青年たちに誘われて参加しました。そこで被爆女性の体験を、三〇人ぐらいのグループで聞きました。悲惨な話でしたが、「過去の話」とい う印象でした。それが大きく変わったのは、たまたま昼食の時に、その方と隣になり、一対一で話してからです。

つきまとう「被爆」の影

 その女性は戦後、子どもを産みました。しかし未熟児で、すぐに亡くなりました。戦争や被爆の影 響です。まわりの人は「こんな時代だから死んでよかった」と、なぐさめましたが、涙が止まらなかったそうです。次の子も小さかったですが育ちました。今度 は「被爆者の子ども」という差別を受け、結婚できるか不安だったそうです。
 六〇年たった今も被爆者につきまとう差別と原爆症。苦しみが生なましく伝わってきました。
 その後、僕は毎月被爆者の方を訪ね、被爆体験と今日までの人生を話してもらいました。「近所の人にレンコンを配ったら、『原爆がうつる』と捨てられた」という話も聞きました。
 原爆は、今も被爆者と家族の体と心をむしばんでいました。

21万の重みを感じて

 そんなわけで、今年の「核兵器なくそう・世界青年のつどい」の実行委員長を務めることになりました。この集会は今年で三回目です。ただいま準備をすすめているところです。
 大きなとりくみは、「二一万羽おりづるプロジェクト」。二一万羽のおりづるを折って、当日会場に並べようという企画です。二一万という数字は、原爆で亡 くなった人の数です(広島一四万人・長崎七万人)。当日、会場に来られない人も、ツルを折ることで参加してくださいね。
 二一万って、とてつもない数字です。でも、その数の「いのち」がたった二つの原爆で失われました。その重みを感じてほしいと思います。
 「つどい」には、海外から三〇~四〇人の青年が参加する予定です。全員に「原爆被害写真パネル」(A三版一七枚組)を贈り、海外で「原爆展」をしてほしいと思っています。資金をつくるため、街頭で募金活動をします。

被爆者運動引き継ぎ

 憲法九条は、悲惨な被害を与えた原爆投下の反省でつくられたと思っています。アメリカも広島・長崎を見て、感じたんだと思います。
 安倍首相は「核兵器は九条に違反しない」と発言しましたが、それは違います。九条はその成り立ちから「核の放棄」こそ叫んでいます。
 また首相は、「時代にそぐわない」と九条を変えて、自衛隊を軍隊にしようとしています。過去の反省がどこかに飛んじゃってますね。
 憲法九条は、人間らしく生きるためになくてはならないもの。被爆者だけではなく、すべての戦争体験者が未来の僕たちに託したものです。
 いずれは、被爆者・戦争体験者がいなくなるときがきます。若い僕たちが運動を引き継いでいかなければ。被爆者たちが命がけで担ってきた運動を僕たちが広げていかなければならない。
 ボクシングも命がけのスポーツでしたが、次の「被爆者運動」も命がけですよ。


 

小林 秀一(しゅういち)さん

 一九七四年生まれ。大学卒業後、九八年にプロボクサーに。九九年に全日本ウエルター級新人王、〇三年にチャンピオンに。〇六年に引退。
 小林久間吉商店(東京文京区)の四代目として忙しい毎日を送りながら、平和・原水禁活動に積極的に参加、今年の「世界青年のつどい」実行委員長も務める。商店は大正二年から続く老舗の豆腐店。

(民医連新聞 第1408号 2007年7月16日)

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