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2007年8月6日

被爆者の叫び引き継ぐ 若い医療人が聞き書き『ピカに灼(や)かれて』 医療人の成長の糧に 広島医療生活協同組合 2年目研修

 被爆体験記『ピカに灼かれて』は、広島医療生協の組合員さんがつくる「原爆被害者の会」が手記を書いて、一九七七年から発行していました。 しかし高齢化のため、継続がむずかしく、二年前の被爆六〇年を節目に、職員が発行を引き継ぐことになりました。証言の聴き書きは、二年目職員の研修に位置 づけました。職員は被爆者と出会い、被爆の新事実に向き合い、彼らの思い、願いを受け継いでいます。(川村淳二記者)

広島と長崎で二重被爆

 賀谷美佐子さん(77)は当時、女学校の三年生(15)でした。学徒動員で広島造船の診療所で勤務中に被爆。爆心地から四kmほどでした。勤めに出ていた父と一二歳の妹は助かりました。
 自宅は爆心地から一kmほどでした。勝手口の辺りを掘ると、骨とともに、母がさしていたメノウのかんざしも落ちており、泣きながら骨を拾いました。その 中には、拾えないほど小さい骨がありました。「これは子どもの骨じゃ」と父。三歳の妹、多美恵の骨でした。ひいおばあさんは上半身が黒こげの状態でした。
 八月一五日、前の年まで住んでいた長崎のお墓に三人分の遺骨を納めるため、妹と向かいました。しかし、そこも広島と同じ瓦礫(がれき)の町になっていました。
 広島に帰ると、口の周りが血だらけになり、ひどい下痢に襲われました。血便でした。そして昏睡状態になりました。
 九月に枕崎台風がきて、妹の「お姉ちゃん、起きて。水がくる、台風の水がくる」と、必死で揺り起こす声で気がつきました。
 広島と長崎で二重に被爆し、苦労の多い半生でした。
 「地球上から核兵器をなくしたい。一発の原爆で希望も幸せも失った人がいっぱいです。ほんとうに嫌です」と賀谷さんは語り終えました。

聴き取りで変わる意識

 聴き取りした浅井真耶さん(事務)は「悲惨という言葉では言い表せない体験を目の前に突き出された感覚。過去の話ではない。現在進行形で考えなければならない問題」と受け止めました。
 市野芙美子さん(事務)も「過去のものとして風化させてはならない」。山本大介さん(医師)は「直接体験の力強さ」にうたれ、「私たちは次世代に伝承で きるか」と自問。証言は核兵器を使わせなかった力になった。これを残す方法はないか、今も考えています。

職員が抱く共通の決意

 七月一九日、製本・完成交流集会が行われました。
 この日、『ピカに灼かれてパートII 二〇〇七年・第二集』が完成しました。一三人の被爆証言のほか、聴き書きした職員の感想も掲載しました。
 広島共立病院の外来の一六%、入院の二〇%が被爆者です。三八人の二年目職員は、二~三人で組んで証言者を探し、五~六月にかけて聴き取りました。
 「何人かの方にお願いしたが『思い出したくない』と、涙ながらに断わられ続け、ようやくみつけた」。辛くてまだ語れない人が多くいます。証言の途中で 「もう思い出したくないよ」と涙ぐんだ人もいました。「悲惨な光景を思い出させて申し訳ない」と思いながら、被爆体験を引き継ぐ重みを噛みしめました。
 「二度と戦争を起こさないために」、勇気を出してくれた患者さん利用者さん。「話してくれてありがとう。今度はわたしが伝えます」。職員が共通に抱いた決意です。

広島に生きる者として
広島共立病院 青木克明(かつあき)院長

 私の母と祖母も被爆者です。母は被爆後、傷がすぐ化膿する体質になりました。私も成人するまでは、化膿しやすい体質でしたが、母は「自分の被爆の影響だ」と最近になって話しました。二世問題はとてもデリケートです。
 当院は、原爆症認定訴訟、韓国やブラジルなどに住む被爆者の支援に尽力してきました。若い職員や私も被爆を伝える「ピースナビゲーター」で活動しています。
 若い世代は、広島に住みながらも被爆当時の話を知らない人が多くなりました。被爆者が高齢化している今こそ、証言は貴重です。心にとどめ、次の世代に伝 えていかなければなりません。それは、広島に生きる私たちの役目です。
 体験記づくりが、職員たちが医療人として成長していく上で、大きな糧になるに違いありません。

(民医連新聞 第1409号 2007年8月6日)

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