民医連新聞

2013年8月5日

1コマに込めた被爆の怒り 本紙 「待合室」の漫画家 西山 進さん 85歳 九電前で座り込み

 本紙二面で漫画「待合室」を描く西山進さんは、長崎の被爆者です。連載第一回は一九八九年一一月二一日号。以来二四年、一コマで 鋭く社会を風刺してきました。「漫画で民医連の皆さんを勇気づけたい。毎号、全力投球です」と西山さん。八五歳で月に五本の連載を持ち、核兵器廃絶や脱原 発の運動でも先頭に立ちます。ほのぼのとした画風ながら、戦争を起こす為政者への激しい怒りがパワーの源泉です。(新井健治記者)

小学校で被爆を語る

 西山さんは福岡市在住。毎年七月になると、被爆の語り部として市内の小学校を回ります。七月一二日は福岡市立老司(ろうじ)小学校で、三二〇人の児童を前に語りました。
 「ガラスの破片がごま塩みたいに突き刺さった死体。真っ黒焦げの五人の子どもは輪になって転がっていた。工作機械の下敷きになった少女を助け出そうとし たら、皮がズルッと剥けた」。紙芝居のように、原爆投下直後の一一枚の絵を掲げます。
 西山さんは一七歳の時、少年工として働いていた三菱長崎造船所で被爆。翌日から爆心地周辺で被爆者の救助に当たり、残留放射線を浴びました。戦後は原爆 症の一つで、猛烈なだるさに襲われる「ぶらぶら病」に苦しみます。家族からも「怠け者」と誤解され、故郷の大分県を飛び出しました。
 辛い障害とたたかいながら炭鉱などで働き、上京して念願の漫画家になったのは四七歳。遅いデビューでしたが、保険医協会や民商、労働団体の機関紙で連 載、日本原水爆被害者団体協議会の新聞漫画「おり鶴さん」は三四年も続いています。

看護師との会話をネタに

 被爆者運動にも熱心です。以前、住んでいた松戸市(千葉)で被爆者の会を設立。国連軍縮総会など海外でも被爆体験を語りました。エフコープ(福岡)発行の被爆体験証言集の制作にかかわり、今年で第一九集になりました。
 福島で原発事故が起きると、直後の二〇一一年四月二〇日から、一〇人の仲間とともに九州電力本社前にテントを建て座り込みを始めました。テントの周囲に は漫画入りの横断幕や看板を掲げ、玄海、川内原発の廃炉をアピール。座り込みは八月五日で八三八日に及び、東京の「経産省前テントひろば」に影響を与えま した。
 「放射能の怖さを知るからこそ、原発の再稼働は許せない。何も語らずにいたら、原爆で亡くなった大勢の方に申し訳ない」。原発の利権構造や原発労働者の 実態を解説した「漫画ルポ」のビラを作り、テント前で配っています。
 核兵器廃絶や脱原発の活動にとりくみ、題材にする。だから漫画は、たたかいの最前線に立つ仲間が主人公。「待合室」には看護師が頻繁に登場します。糖尿 病で左足が不自由なため、通院が欠かせない西山さん。病院で民医連の看護師と情勢の雑談を交わし、次回作のヒントを見つけます。

「命を不当に扱うな」

 苦労に苦労を重ね、ようやく漫画家になった西山さん。「あの戦争さえなければと、いつも思う。日本人は命を不当に扱うものへの怒りを、もっと持たなければ」と語気を強めます。
 老司小学校では、児童にあえて戦争の原因を問いました。原爆の残虐性にとどまらず、そこに至った背景を考えてほしいからです。「戦争は地震や台風など天 災ではなく、人間が起こすもの。開戦に向け、日本は天皇のために命を投げ出す子どもをたくさんつくった。それを忘れないでほしい」。
 民医連職員にもエールを送ります。「自民党は憲法を変え、再び戦争をする国にしようとしている。被爆者として絶対に許せない。社会保障や平和の問題で活 動する民医連の仲間が、漫画を見てクスッと笑い、元気になってくれればうれしい。ともに粘り強く、息の長いたたかいを続けましょう」。

(民医連新聞 第1553号 2013年8月5日)

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