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2015年2月28日

元気スペシャル 村の誇りを取り戻せ 立ちあがった飯舘村の住民たち 写真家・森住 卓

除染が終わり、表土が剥がされてしまった目黒さんの自宅。いったんは放射線量は下がったが、いつふたたび線量が上がるかわからない(2014年12月)

除染が終わり、表土が剥がされてしまった目黒さんの自宅。いったんは放射線量は下がったが、いつふたたび線量が上がるかわからない(2014年12月)

 「謝え! 償え! かえせ ふるさとを」
 昨年一一月一四日、福島第一原発事故で全村避難が続く、福島県飯舘村の村民が立ちあがった。村民約六二〇〇人のうち、二八〇〇人が東電に対し、責任を認めて謝罪することや、避難の遅れ・精神的被害・生活破壊などに対する賠償金を支払うよう、国のADRセンター(原子力損害賠償紛争解決センター=注)に申し立てた。

我慢の限界を超えて

 「いままではじっと我慢してきた。村、国は我々を助けてくれるだろうと思っていたが、三年経っても何もしてくれなかった」
 こう語るのは、原発被害糾弾飯舘村民救済申立団(以下、申立団)の長谷川健一団長(61)だ。彼も村で酪農を営んでいたが、原発事故で「休止」を余儀なくされ、いまだに再開のめどは立っていない。
 長谷川さんは、「飯舘村民は怒っている。我々はあまりにもおとなしすぎた。声を上げて東電に事故の究明や説明をちゃんとさせようということで、申立団を結成した」と力強く語った。
 ADRセンターへの申し立てを呼びかけたとき、長谷川さんの予想は「多くて一〇〇人」だった。保守的な農村で賠償を求めて声を上げることは、たいへん勇気がいる。しかし、予想をはるかに上回る住民たちが、次々と参加してくれた。これには、呼びかけた長谷川さん本人も驚いたと言う。

賠償金より謝罪を

 地図三瓶繁子さん(76)は、「このまま黙っていてはいけない、何かしなければと思っていた。そこに長谷川さんが(申し立てを)やるというのを聞いて、すぐに参加した。こんなのを待っていたんです」と言う。
 三瓶さんは現在、福島市内の借り上げ住宅に暮らしている。震災当時、米・野菜・葉たばこの栽培、ビニールハウスでの花卉栽培、繁殖牛三頭の世話を、一人ですべてこなし、夜も寝る間を惜しんで働いていた。
 三瓶さんの半生は、苦労の連続だった。七歳のときに実母が亡くなり、飯舘村の農家へ養子に出された。養親からは牛馬のように働かされた。養父が決めた相手と一五歳で結婚させられたが、夫は酒におぼれて仕事もろくにせず、暴力を振るった。
 「母が亡くなったときから不幸がはじまった。人生、何も楽しいことはなかった」と、淡々と語ってくれた。
 七〇歳を過ぎ、子どもたちが独立し、孫もできて、ようやく自分の人生を楽しもうと思っていた。正月と盆に、孫の顔を見られるのが何よりの楽しみだった。春には裏山で山菜を採り、秋にはキノコ狩り──それらの楽しみをすべて奪ったのが原発事故だった。
 「謝罪がないことが、一番悔しい。賠償金じゃないよ。ふるさとを戻してほしい」と言う三瓶さんの額には、深い皺が刻まれていた。

楽しみや喜び奪われ

除染で出た汚染土や草木を入れた袋が野積みされた仮置き場(2014年12月)

除染で出た汚染土や草木を入れた袋が野積みされた仮置き場(2014年12月)

 目黒明さん(74)は毎日、避難先である相馬市の仮設住宅から、飼い猫の世話をするために自宅に通っている。
 「原発事故さえなければ、この村で平和な暮らしをまっとうすることができた。盆暮れには子どもや孫が帰ってきて賑やかだったのに、今は誰も来ねえ。できた野菜や米を子どもに送ってやって喜ばれた。それが楽しみだった」
 目黒さんは、除染の終わった屋敷を見通す丘に立ち、子どもの頃の話を聞かせてくれた。
 開拓農家の長男として生まれた目黒さん。幼い頃から父親といっしょに山を人力で開墾したが、ソバ・カボチャ・麦しかできなかった。
 冬は炭をつくって現金収入を得た。一一歳の時に父親が亡くなり、目黒さんが家を引き継いだ。母親とともに谷筋に棚田を作り、米ができるようになった。自分で重機を運転して耕地を整理し、田んぼを増やした。しかし、米価は叩かれ、いくら働いても暮らしは楽にならなかった。
 一〇年ほど前から、都会に出て行った娘に米を送るといつも喜ばれた。原発事故の起こる一年前、近所の農家と協力して東京の消費者に直販するようになった。七〇歳を過ぎて、はじめて米の値段を自分でつけて売った。嬉しかった。原発事故が、ようやく手にした喜びを奪ってしまった。
 目黒さんは「国は“原発はもう安全だ”と言って再稼働させようとしている。我々被害者の気持ちをどう考えているのか? 広島・長崎の被ばく経験のある国が原発を作った責任は重い」と唇をかみしめた。

申し立ては村民の過半数に

 申立団に先立ち、帰還困難区域に指定されている同村長泥地区の住民らは、真っ先にADRセンターへの申し立てをおこなっている。その結果、東電は昨年一月、被ばくへの不安に対する慰謝料として、一人あたり五〇万円(子どもと妊婦は一〇〇万円)の支払いに応じた。
 長泥・蕨平・比曽・八和木前田の各地区村民グループと、今回の申立団をあわせて、実に村民の半数以上がADRセンターへの申し立てをおこなうことになった。
 飯舘村は放射線量に応じて「避難指示解除準備」「居住制限」「帰還困難」の三区域に分けられ、賠償内容も決められているが、こうした線引きは村民の対立を生む。申立団の佐藤忠義事務局長は、「放射性物質は村全体に降った。賠償が三区域に分けられるのはおかしい」と指摘する。
 「これは単に損害賠償をしてください、というたたかいではない。飯舘村の誇りを取り戻し、奪われた権利を取り戻すたたかいです」と申立団の保田行雄弁護士は言う。
 福島第一原発事故から、まもなく四年がたとうとしている今も、一三万人の福島県民が不自由な避難生活を送っている。ふるさとに戻れない県民をよそに、国は原発再稼働・輸出に突き進もうとしている。
 飯舘村民たちの申し立ては、原発事故の責任をとらず、被害者への賠償も十分におこなわない国や東電を追及し、福島県民の誇りと生きる権利を取り戻す大きなたたかいになるだろう。今後、他の地域にも広がっていくに違いない。

いつでも元気 2015.03 No.281

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