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2015年4月7日

戦後70年 のこす 引き継ぐ 長野医療生協 組合員さんが語った戦争 機関紙で連載10年 書籍に

 長野医療生協では、機関紙「みんなの医療」に組合員さんの戦争体験記を連載中です。連載一〇周年を迎えた昨年、それまでの記事を冊子にまとめました。とりくみを取材しました。(田口大喜記者)

 長野医療生協の「みんなの医療」は、長野中央病院をはじめ、全一四の事業所の職員に配布されている機関紙です。二〇〇四年から「組合員さんが語る 平和のための私の戦争体験」のシリーズを開始。当初は不定期掲載でしたが、第一次安倍政権(二〇〇六年九月~〇七年九月)が急速にすすめようとした憲法改悪を危惧し、本格的な連載になりました。
 昨年で連載一〇年に。紙面で語られた戦争体験は五〇人分になっていました。第二次安倍政権の「戦争する国づくり」の動きをきっかけに冊子をつくることに。「戦争の怖さをもっと知らせなければ」との思いを込めています。
 「これまで協力してくれた人の二割以上が亡くなりました。戦争体験者が元気なうちに本を渡したいと思いました」と、機関紙編集を担当する法人事務局の田村昌美さんは振り返ります。

▼手記から聴き取りへ

 連載は開始当初、体験者に原稿を書いてもらうスタイルが主でした。しかし、高齢のため書けなくなる人が増え、職員が取材に行く形に変化しています。
 三月二日、田村さんの取材に同行しました。語り手の縣(あがた)澄子さんは八九歳です。横須賀で生まれ、戦艦の艦長を務める軍人の父に厳格に育てられました。女学生でしたが、学校の時間は勤労奉仕にほとんどを割かれ、勉強はできなかったと言います。食べ物も無く、不満を言えば「非国民」と罵られました。自由な恋愛も許されず、親が決めた顔も知らない相手と結婚したそうです。「不自由や理不尽が普通の世の中でした。戦争なんてやるもんじゃない」。
 冊子には、どんな戦争体験が集められているのでしょうか。一九四五年八月一三日の長野空襲で命からがら逃れた体験や、「人間魚雷」の訓練をした話も。特攻隊の若者は、ただ死を待つばかり、「いかに死ぬか」の選択しかなかったと語っています。

▼全国一の満蒙開拓移民

 そして、満蒙開拓の話も多く入っています。一九二九年の世界恐慌で、長野県で盛んだった蚕糸業が大暴落、県は青少年を満州国に開拓民として送る移民(満蒙開拓義勇軍)政策を積極的にすすめ、長野は全国一の送出県でした。
 しかし「開拓」とは名ばかりでした。銃を持たされ、略奪に加担したことへの後悔の念は、今も消えません。終戦後の引き揚げでは、ソ連軍に捕らわれ、シベリアに連行された人たちも。飢えや病で亡くなり、帰郷が叶わなかった人たちや、集団自決をはかった開拓団も。加害の罪悪と凄惨な記憶で、満蒙開拓の経験に口を閉ざす人も少なくありませんでした。
 しかしいま、「黙っていては大変な世の中になる」と、語り部になる人が増えていると言います。

▼冊子化のその後

 完成した冊子は語り部をしてくれた故人の遺族にも渡しています。お礼状も送られてきます。冊子を編集するため過去の記事を読み返した田村さんたち自身も平和の大切さを再認識できたそう。
 編集に携わる吉田一也さん(長野医療生協・地域活動部)も、「若い人は学校でも戦争の歴史を正しく知らされていません。だからこそ、意志決定の材料として、戦争体験を引き継ぎたい。戦争を身近なものだと認識してほしいです」と続けます。
 戦争を語れる人は確実に少なくなっています。「今後は組合員に限らず聴き取りを続け、戦争の悲惨さを伝え続けたい」「若い職員にも積極的に聴き取りに参加して、戦争体験者の生の声を聞いてほしいです」と二人は語っています。

(民医連新聞 第1593号 2015年4月6日)

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