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2015年4月21日

戦争反対 いのち守る現場から 日本プライマリ・ケア連合学会 丸山泉理事長 戦争では医学も無力 医療人も社会性を持って

 医療・福祉の現場から「戦争反対」の声を発信するシリーズ。今回は、日本プライマリ・ケア連合学会の理事長として、地域医療や在宅医療について精力的に活動する丸山泉さんに聞きました。(丸山聡子記者)

激戦地から帰った父

 私の父は早稲田大の仏文科で学んだ詩人でした。その後、家業であった医師となり、軍医として北ビルマ(現・ミャンマー)に赴き、退却路が「白骨街道」と呼ばれたほどの激戦地で、壮絶な体験をして帰ってきました。
 三一歳の時に敗戦を迎えた父は、ずっと沈黙を守っていました。それが五四歳の時に、初めて戦争体験を語り始めたのです。地元紙の「西日本新聞」での連載で、五〇回を数えました。
 連載の初回の言葉は痛烈です。父にとって戦争は「抜歯のきかぬ虫歯」であり続けました。忘れることのできない記憶だったのでしょう。同時に出発点でもありました。戦争から帰ってきた時、「確かに民主主義が始まった」と思った。軍での序列もなく、車座になり、行く末について語り合ったのです。
 しかし敗戦から二〇年経つとその風土は失われ、元軍人が集まれば階級順に座り、軍歌を歌う…。戦友を亡くし多くの人の死場所に立ち会った者として、犠牲の上に得たものは何だったのかと。
 戦後は久留米に戻り、小さな有床診療所を開く傍ら、文化活動をしていました。往診依頼を断ることはなく、冬の日の診療時間外に電話がくると、先に診療所に出向いて患者のためにストーブをつけて待つ…という医師でした。
 「戦争はやったらいかんぞ」と繰り返し言っていました。戦争では医学の無力さを実感したのでしょう。父の思いがこの歳になって分かってきて、私自身の原動力ともなっています。医療人も、医療だけではなく社会性を持って生きなければならないのです。

命が大切にされない

 戦後、車座になって語り合った民主主義はどこへ行ったのか。いまだこの国には、民主主義が根付いていないと感じます。多くの人が危うい空気を感じているのではないでしょうか。私自身は、極めて危うい時代になってきていると感じています。だからこそ、多くの人たちといっしょに動くことが大事でしょう。
 医療が人々からは遠いものになってきています。そのことは病院経営にも表れています。未収金が増えました。意図的に払わない人もまれにいますが、本当に払えない人たちが増えています。
 医師として悔しいのは、入院が必要なのに、断る患者が増えていることです。先日も、がんを患う男性に入院、手術をすすめましたが、「ばあさんに金ば残さんといかんけん、俺はもうよか」と言われるのです。
 日本の医療制度は患者に冷たく、気配りの足りない制度になってしまいました。日本の医療は「皆保険制度」ですが、現状は「皆保険」と呼ぶには恥ずかしいほどです。保険料が払えない人がたくさんいるような負担のあり方、窓口負担が高いために治療をあきらめる人がいる事態を放置していいのでしょうか。日本に住む人たちが、すべからく医療を受けられるようにしなければならないと思います。
 今やお金のあるなしが命や健康に直結しています。かつて「お金持ち」という言葉には若干否定的なニュアンスがあり、地域の人たちから慕われる「立派な人」は、たいていお金を持っていなかった。ところが最近は「お金を持っていること」が一番えらいことになり、「お金持ち」が大きな顔をして、物事を決めたり意見を言ったりする。“命”より“お金”が大事でいいのでしょうか? こうした風潮に、医療界は警鐘を鳴らさなければいけません。

*   *

 医師会も社会に向けて声をあげるようになってきました。大事なことです。そうでなければ日本の医療は守れない。医療人は、国民を守る立場に立たなければならないと思います。


  「私にとって、戦争の記憶は、とりもなおさず、抜歯のきかぬ虫歯である。折りにふれて痛みだし、世間智におぼれそうな私を、きびしい出発点へひきもどす。自らへの問いが始まる。戦争とは何であったか。死をくぐりぬけるとはどういうことか。最後にそこで何を決意したか。戦友の末期の声はなんであったか。それは今日の私の世界観とどう結びついているか」(創言社『月白の道』より)


 まるやま・いずみ 医師で詩人の丸山豊氏の長男として1949年、福岡県久留米市に生まれる。75年、久留米大学医学部卒業。85年、丸山病院院長、89年、同理事長に就任。小郡三井医師会会長、日本医師会代議員を歴任した後、12年から現職。

(民医連新聞 第1594号 2015年4月20日)

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