MIN-IRENトピックス

2015年5月7日

戦後70年 のこす 引き継ぐ 元特攻兵 岩井忠正さん(94) 人間魚雷「回天」の記憶 「鉄のお棺」に載せられて

 戦後七〇年シリーズ、今回は「のこす」立場から西都保健生協の組合員・岩井忠正さんに聞きます。岩井さんは一九二〇年生まれ、九四歳です。学徒出陣で人間魚雷「回天(かいてん)」や、人間機雷「伏龍(ふくりゅう)」と呼ばれる特攻隊に参加させられました。(田口大喜記者)

 一九四一年、岩井さんが二一歳の時に太平洋戦争が勃発しました。慶応大学で西洋哲学を学んでいましたが、兵力の不足のため一九四三年から始まった学徒出陣によって戦争へ駆り出されます。
 「大和魂」や「根性」などの精神論がとびかう中、「この戦争は必ず負ける。石油と鉄が必要な戦争で、日本がそれを輸入していたアメリカを相手にして勝てるはずがない」と強く思っていました。
 徴兵検査に向かう汽車の中、いっしょに徴兵された弟の忠熊さん(立命館大学名誉教授)と「生きては帰れない」「天皇制は間違っている」と周囲に分からぬようドイツ語を交えて小声で語り合いました。しかし、抵抗することはできませんでした。「戦争批判は唱えただけで連行された。だけど、同じように考えていた学生もたくさんいたはず」と振り返ります。

■「新兵器」と見せられたのは

 一九四四年から、対潜学校(※)で敵の潜水艦を攻撃する方法を学びました。日本の戦況が次第に苦しくなっていくなか、「一発必中の新兵器が開発された。搭乗員を募集する」との知らせが。軍国的な思想強制が嫌で「一日も早くここから出たい!」と応募。約四〇〇人の学徒兵たちとともに山口県光市の基地へと送られました。
 そこで見せられたのが水中特攻兵器「回天」()、人間魚雷です。「これはお前たちのお棺だ」上官は岩井さんたちに言い放ちました。「俺たちはこれに乗って死ぬのか…」その場が静まりかえったといいます。「そこに人権などない。『運命だ』とあきらめるしかなかった」。
 ある日、出撃前夜の特攻兵が訪ねてきました。面識のない彼は慶応出身でした。激励の言葉はなく、握手を交わす程度だったそう。「死ぬ覚悟はしていても、死にたくないのは皆同じ。同窓の私と会うことで、生きてきたこの世とのつながりを確認したかったのだろう」。回天に搭乗して命を落とした若者は、約一〇〇人にものぼりました。
 「死ぬための訓練」を続けた岩井さんでしたが、風邪で受診した軍医から結核と診断されました(後に誤診と判明)。転勤命令が下り、出撃は免れました。

図

■人間機雷「伏龍」

 その後、広島県呉市の潜水艦基地隊を経て横須賀へ。そこでまたしても特攻の訓練を受けることになりました。
 人間機雷「伏龍」でした。これは潜水服に酸素ボンベを背負い、三mの棒の先端に機雷を仕込んだだけの装備。兵士はこの姿で海底に潜んで、本土に近づく敵の上陸用舟艇に攻撃するという作戦でした。ところが、ボンベの呼吸法が難しく、ボンベ内の苛性ソーダを誤って吸いこみ、肺を焼く事故が多発。一九四五年七月、岩井さんも訓練中の事故で入院。退院後間もなく終戦をむかえました。
 結局伏龍は実戦に導入されることなく、訓練で約五〇人の死者を出しただけでした。

■妥協は戦争への協力

 戦時中の日本は、戦争に反対する気持ちはあっても、沈黙をせざるをえない状況でした。結果、特攻隊員に仕立てあげられた経験を、岩井さんは「失敗だった」と語ります。「抵抗運動を起こせなかったのは、我々の世代の責任。体制に妥協することは戦争や犯罪につながる。それは今でも起こりうること。そのことを知ってほしい」と続けました。

*      *

 講演や著書も多い岩井さんですが、この体験を初めて語ったのは戦後四〇年を過ぎた六〇代のころ。ふとした誘いがきっかけでした。しかし今は、「いまの日本の情勢は戦時中にとても似ている」という危機感で、自宅を訪れる若者たちに語り続けています。


※対潜学校…機雷の設置や水中探索術を習得させる旧日本軍の、教育機関。横須賀の久里浜にあった。

(民医連新聞 第1595号 2015年5月4日)

お役立コンテンツ

▲ページTOPへ