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2015年6月2日

戦争反対 いのち守る現場から 立教大学 浅井春夫教授 孤児12万人生んだ先の大戦 二度とくり返さないために

 医療・福祉の現場から「戦争反対」の声を発信するシリーズ。今回は初めて福祉分野からの発言です。立教大学で児童福祉を研究する浅井春夫教授に聞きました。戦争と福祉について考える書籍を最近出版しています。(田口大喜記者)

福祉と戦争

 私は以前、児童養護施設に勤めていました。児童養護施設は歴史をたどれば、戦災孤児や浮浪児を“収容”する施設につながっています。
 日本の社会福祉事業は、“戦争の後始末”を担ってきました。戦争で夫を亡くした女性と子どもたちのための母子寮、戦争で重傷を負った傷痍軍人のための身体障害者施設など、戦争犠牲者のためのケアと救済の制度として再出発をすることになりました。戦争と福祉は相反する関係です。「戦争に反対することは福祉分野にとっても第一の使命」だと言い続けなければならないと考えています。
 立教大学コミュニティ福祉学部の理念は「いのちの尊厳のために」です。平和であってこそ、いのちは守られます。戦争がひとたび始まれば、「殺し殺される事態」は必ず起こってしまいます。

戦争孤児のこと

 これまで広く使われてきた「戦災孤児」という用語には、どこか自然災害のように原因と責任が曖昧にされている問題があります。一方、「戦争孤児」は戦争政策の犠牲者であるという本質を表現する言葉です。
 一九四八年に行われた厚生省による全国一斉孤児調査では、孤児の数は一二万三五一一人とされています。しかし国は、この調査結果について当初は三〇〇〇人程度だと発表していました。戦後三年経過して全国一斉孤児調査を実施している点からみても、戦後行政は子どもの福祉に対して後ろ向きでした。
 戦後何十年と援助もなく、生きていかざるをえなかった戦争孤児たちの戦後史は苦難をきわめました。
 終戦直後、児童養護施設は八六施設にまで減少しており、施設に入れたのは孤児総数一二万人のうちわずか一割。国が施設を増設しなかったことで、ほとんどがホームレス=浮浪児となってしまったのです。
 東京でも上野の地下道は戦争孤児であふれ、大勢の孤児たちが餓死、凍死していました。生き残った孤児たちも地獄の生活でした。全国から上野の地下道や駅の構内に浮浪児が集まりました。新聞売り、靴磨き、盗み、ヤクザからの覚醒剤や密造酒の密売などで生活の糧を得ていました。生きるためには何でもやらなければならなかったのです。

沖縄での体験から…

 四年前、国内留学で沖縄国際大学に一年間研究員として在籍しました。住居は普天間基地の外縁フェンスからわずか一〇メートルほどの場所。飛行機やヘリの爆音と、禁止されているはずの夜間訓練も常に行われていて、沖縄の状況を身をもって知ることができました。
 戦争を経験した沖縄の高齢者は戦後七〇年となるいまも「足が焼け付くように痛い」などPTSDに悩まされています。
 そんな沖縄との関わりの中、「私にできることはないものか…」と考え、沖縄戦と孤児院の研究をはじめました。

沖縄戦と孤児院

 沖縄戦は日本軍が「軍官民共生共死ノ一体化」の方針を貫いたため、多くの住民が命を落とし、戦争孤児が大量に生まれました。戦争孤児を収容する孤児院は、第二次大戦後の処理的施策として沖縄で初めて開設されました。しかし、米軍の支配のもと、孤児院は邪魔者の隔離政策でしかなく、孤児たちは大切にされませんでした。
 沖縄では戦後、一三の孤児院が設置されましたが、田井等(たいら)孤児院、コザ孤児院でも相当数の子どもたちが衰弱死したと職員だった人の話から分かりました。
 戦争は戦中も戦後も、国の役に立たない人間を福祉の対象としなかったのです。
 二度と子どもたちに戦争を体験させてはいけません。そのことを言い続けなければならないと思っています。若い人たちにも、戦争によってこうした事実があったことを、受け継いでもらいたいと願います。


あさい・はるお 児童養護施設の児童指導員として12年間勤務。98年、立教大学コミュニティ福祉学部へ。02年より現職。“人間と性”教育研究協議会代表幹事、全国保育団体連絡会副会長。著書に『脱「子ども貧困」への処方箋』(新日本出版社)など

(民医連新聞 第1597号 2015年6月1日)

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