憲法・平和

2015年9月8日

戦後70年 のこす 引き継ぐ もっと描いていたかった…レイテ島で戦死した22歳 戦没画学生の絵を待合室に ―京都民医連洛北診療所―

 ひげの一本一本まで描き込まれたトウモロコシ、今にも画面から飛び出しそうなバッタ…。身近な題材をみずみずしく描いた絵が、京都民医連洛北診療所の待合室に展示されています。絵の数々は、戦争で若き命を落とした画学生が遺したもの。終戦から七〇年となるこの夏、「多くの人に見てもらいたい」との遺族の声に応え、展示しています。(丸山聡子記者)

 「この絵は、若くして戦場に散ってしまった命が確かに生きていた証。いま世に出さなくては」。診療所設立以来からの患者で友の会会員の寺嶋邦子さんは言います。絵を描いたのは磯田豊治さん(享年二二歳)。邦子さんの父の弟・叔父にあたります。
 豊治さんは、江戸時代から続く京都の蒔絵職人の家に生まれました。幼いころから絵を描くことが好きで、京都市立絵画専門学校(現・京都市立芸術大学)図案科に入学。当初、大学や専門学校の学生は二六歳まで徴兵が猶予されていました。
 しかし、戦争末期に兵力が不足すると、猶予期間が短縮され、一九四三年には文系学生が在学中に徴兵。豊治さんも三年生だった四三年九月に繰り上げ卒業となり、翌年一月に招集。四五年四月、八万人が命を落とした激戦地、フィリピン・レイテ島で戦死しました。同校では、分かっているだけで一二三人が戦死しています。

■戦争さえなければ

 家業の蒔絵工房は邦子さんの弟が継いでいます。建て替えや改築を重ね、豊治さんの絵はバラバラに。邦子さんが長年営んできた書店を閉じたのを機に実家を探してみると、デッサンなどがくるくると巻いた状態で見つかりました。
 「一枚一枚、一生懸命に描いたことが伝わってきました。勢いがあり、戦争とか平和とかではなく、ひたすら描きたい一心で描いていました」。邦子さんは、絵と対面した時の印象を語ります。
 傷みのすすんだ絵を額装し、よく患者さんの絵を飾っている洛北診療所に展示を申し出ました。
 当時の日本社会は戦争に突きすすみ、描くこと自体が「肩身の狭い思い」だったろうと推察する邦子さん。「末の弟だけは職人ではなく絵描きにしたいと、きょうだいたちも応援していたと聞いています。一家の希望だったのでしょうね。戦争さえなければ…」。

■「無言館」に絵を届け

 終戦時、邦子さんは一歳。戦争の記憶はないものの、終戦直後の食糧難や家業の苦労、シベリア抑留から帰った伯父(豊治さんの長兄・佐一郎さん)の様子など、家の中に残っていた戦中戦後の空気を覚えています。「祖父母や父から、豊治さんの話を詳しく聞いたことはありませんが、祖母の後ろ姿は目に焼き付いています」。
 一緒に暮らしていた祖母(豊治さんの母)は、たんすの一番上の引き出しに、五人の息子たちの手紙や写真をしまっていました。豊治さんの絵もありました。時折それらを取り出し、ジッと見つめていました。「若い女性の絵もあったと記憶しています。思い人だったのでしょう。その方からの手紙もありましたね」と邦子さん。
 七月には長野の戦没画学生慰霊美術館・無言館にも絵を届けました。無言館開設前、戦没画学生の遺族を訪ね歩いていた窪島誠一郎館長が邦子さんの実家にも足を運んでいました。当時は絵が見つからず、寄贈できませんでした。
 絵を届けると、窪島さんは一枚一枚じっくり眺め、「本当はこんな美術館があっちゃいけないんです。作者はここに飾られることを承諾していない」と言いました。
 「ハッとしました。豊治さんの存在を知っていたのは、きょうだいの中でも一番上の私ぐらいです。親族が戦争で人生を奪われたことを子や孫たちに伝えたい。京都で多くの人に絵を見てもらいたい」。寄贈しようと持って行った絵の半分を持ち帰りました。

■豊治さんは“同い年”

 洛北診療所では六月、「平和のつどい」を開きました。実行委員長は、四月に入職したばかりの伊藤翔大さん(事務)。戦後七〇年の節目に、戦争や原爆を体験した友の会会員や患者さんから話を聞く企画をしました。そのさなかに、邦子さんの依頼を受けました。
 「絵を初めて見た時、生き生きしていて驚きました」と伊藤さん。やがて、豊治さんが今の自分と同年齢で戦死したことに気づきました。「やりたかったこと、描きたかったこと、全部あきらめて、命を落とすかもしれない戦場にいく。その気持ちはどんなだっただろう。想像もできません」。
 今また、憲法九条をないがしろにして“戦争する国”にしようとする動きに危機感を募らせます。先日も、診療所前で宣伝をしていると、「私も反対」と、大学の教員も署名に協力。「学校の先生もママさんも、そして学生や若い人も声を上げている。それが希望です。僕も多くの人たちといっしょに行動し、“二度と戦争はしない”ことを、守り広げていきたい」

(民医連新聞 第1603号 2015年9月7日)

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