いつでも元気

2003年5月1日

みんいれん半世紀(5) チッソ門前にたった小さな診療所が不知火海沿岸で住民検診をかさね、診断基準を確定

 公害の原点といわれる水俣病。「ニセ患者」攻撃をうち破り、全面解決に導くうえで、民医連がとりくんだ住民検診は大きな役割をはたしました。一九七四年、加害企業チッソ水俣工場の正門前に建った小さな診療所は、患者の強い要求と、民医連の決意のあらわれでした。 genki139_03_01
1974年にできた水俣診療所。4年後、水俣協立病院に発展

 

平田医師の痛恨

 板井八重子医師(55歳、現熊本民医連会長)は学生のころ、熊本民医連の“元祖”熊本保養院院長の平田 宗男医師から「水俣に行きなさい」としきりにすすめられました。そこで見たのは、あぐらをかき、上半身をゆすりながら指をこすりあわせる動作をくり返す少 女の姿。よだれを流しながら上目づかいに見つめてくる目を、見つめ返すことができませんでした。「人間をこんなに痛めつけるなんて」と強い憤りが心に刻ま れました。
 「いまになって、平田先生の気持ちがよくわかります」と板井医師。
 「平田先生は、水俣病が正式発見された一九五六年、熊本に民医連があったのに、すぐとりくめなかったことを後悔されていました。三池炭鉱での一酸化炭素 中毒や八代での二硫化炭素中毒では、現場にいき、被害者を直接みて、症状を検証してきた。水俣病では、なぜすぐいけなかったかと痛恨の思いがあり、その思 いが私たち学生を動かしたのだと思います」

「遅れとりもどす」と決意

 水俣病の原因は、チッソがたれ流した有機水銀です。不知火海の魚介類が汚染され、大量に食べていた沿岸 漁民が、中枢神経をおかされました。一九五六年に「原因不明の奇病」として公表されますが、六〇年には、熊本大学水俣病研究班が原因はメチル水銀と確定。 しかしチッソも国も水銀使用の事実を隠し、六八年までたれ流しを続けました。
 水俣病は「五三年に始まり、六〇年に終わる、患者一一一人の病気」とされ、一時は圧殺されてしまったのです。
 ところが六五年、新潟県阿賀野川下流域で、第二の水俣病が発生。新潟では水俣の教訓から、住民のいっせい検診を行ない患者救済をすすめました。
 平田医師は衝撃を受け、「今後のたたかいで遅れをとりもどそう」と決意。水俣病訴訟支援県民会議医師団に加わり、潜在患者ほりおこしと被害者支援に奔走、第一次水俣病訴訟勝利(七三年)に力をつくしました。

診断基準を確立して
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往診する藤野医師。1979年ごろ(撮影・松田寿生)

 七三年には第二次訴訟も始まるなど被害者のたたかいも広がります。しかしこの年のオイルショックを機に国と財界は巻き返しに出ました。認定をきびしく し、病気の特徴がすべて現れていないと水俣病と認めないというのです。裁判で水俣病の「病像」が争われることとなります。
 水俣診療所の初代所長・藤野糺医師は「水俣病」という名さえ口に出せないチッソ城下町で、地元の支援者らと協力し、患者宅を一軒一軒訪ね、診察しました。
 「ポイントとなったのは鹿児島県の桂島検診です」と板井医師。
 当時、鹿児島県は、桂島には一人も患者はいないといっていました。しかしある認定患者が、桂島にいる兄弟が同じ症状だというのをきき、七四年、三〇歳以 上の成人六五人の検診を行ないました。結果は全員に四肢の感覚障害が見られました。七六年、非汚染地域の奄美大島で同じ検診をすると感覚障害はゼロ。
 さらに全国の民医連からの支援もえて不知火海沿岸の各地で集団検診し、患者を掘り起こし、まとめました。
 その結果、「有機水銀に汚染された地域にいて、手足の末梢感覚にしびれなどがある」場合は、水俣病と考えられるという診断基準が確立されたのです。
 これが第二次訴訟福岡高裁判決(八五年)で採用され、九五年、国が示した解決策でも救済の基準となりました。
 「国の解決策は、一時金の額など内容面では不十分さもありましたが、救済者数は九七年で一万二三七一人。この基準が、原告患者の五倍以上もの人々の救済をなしとげたのです」と水俣病被害者の会事務局長の中山裕二さん(49歳)。

魚しか食べるものがなかった

 八〇年に提訴した第三次訴訟の原告団長・橋口三郎さん(77歳)は、水俣市の隣、鹿児島県出水市名護地区の漁師です。橋口さんも中傷にさらされました。
 「ニセ患者のくせに、裁判までしてゼニがほしかかといわれました。だが、俺が患者と認定されたら、すべての人が救済されると思ってやってきました」
 橋口さんは根っからの漁師。「刺身ならどんぶりに三杯、味噌汁の具も魚、漁民は魚しか食べるものがなかった」といいます。一九五〇年ごろから手足のしびれを感じるようになっていました。
 「水俣病は終わった」という県の環境白書に、「これはおかしか。水俣病かどうかはっきりさせたい」。その思いで出水での被害者の会結成に加わりました。
 第三次訴訟はチッソのほか、はじめて国や県の責任を問う裁判となりました。
 

水俣病を終わらせてはいかん

 「いままでの恩返し」として、橋口さんが水俣協立病院に土地提供を申し出たことから、「NPOみなま た」が設立され、昨年五月、グループホーム「三郎の家」がオープンしました。「NPOみなまた」は(1)グループホームなどの福祉事業を行なう(2)水俣 病を中心とした環境問題にとりくむ、を活動の柱にしています。橋口さんは「水俣病は終わっていない」と、水俣病の語り部としても活動しています。
 板井医師も「胎児性水俣病」の研究を続け、海外に水俣病を伝える活動をし、また母校、熊本大学では「開業医からのメッセージ」という講義をしています。
 「学生たちは、ことばとして『水俣病』は知っているが、もう起こらないものと思っている。水俣病を若い学生に語り継ぐことが大切と感じています」

文・八重山薫記者/写真・酒井猛

いつでも元気 2003.5 No.139

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