いつでも元気

2003年8月1日

みんいれん半世紀(8) 伊勢湾台風 泥水にまみれて2万人をみた救援活動 復旧のなかから住民と若手医師の力で診療所設立

 一九五九年九月二六日、台風一五号(伊勢湾台風)は紀伊半島に上陸。愛知、三重を中心に全国で五千人以上の死者をだす、戦後最大の被害をもたらしました。民医連はただちに医療班を派遣。その後の復旧活動のなかから、愛知や三重に民主診療所が誕生しました。

「被災者の立場に立つならば」

 現在、全国保険医団体連合会会長である室生昇医師は当時27歳、 名古屋市内の民間病院に勤務していました。仕事が終わると、被災者救援活動に向かう日々。
「学生時代にセツルメント活動をしていた仲間とつくっていた『名古屋セツルメント同窓会』、オールドセツラーのひとりとして参加しました」。室生医師は、 市の救護活動にも参加したことがあります。市の救護班は朝の九時から午後にかけて避難所まわりをしますが、あまり患者が集まりません。多くの人たちは昼間 は復旧作業で忙しく、受診どころではなかったのです。
 「市が夜間の診療を行なうとか、長時間の活動を行なおうとすると時間外手当や超過勤務に対する予算措置をとらねばならぬ。本当に被災者の立場に立つならば当然このような処置はとるだろうが」と、室生医師は当時の名古屋セツルメント同窓会会報に書いています。
 その一方で「同じ頃、同じ地域で京都民医連の人たちは、夜六時頃から、被災者たちが避難所へ帰った頃に時間をえらび、三、四カ所時間を決め、各避難所に予定を知らせて巡回診療を行なっていた」(同前)と、民医連医療班の「実情にそくした活動」を伝えています。

一通の電報で全国から救援に

 救援は、当時名古屋で唯一の民医連診療所だった星崎診療所(一九五三年設立)の岩城弘子所長が、全日本民医連に電報を打ったことからはじまりました。
 電報を受けた全日本民医連は全国に支援を要請。京都からの医療班は港区へ、大阪・兵庫・奈良や関東からは南区へ駆けつけました。医療班は三重県の桑名など名古屋以外へも入り、全体で、最長四九日間、のべ七百人の職員が参加。治療した患者はのべ二万人にのぼります。
 民医連は、民主団体災害対策協議会(民災対)の一員として救援活動にとりくみました。民災対とは社会党、共産党、総評傘下の労働組合、保険医協会などが 災害対策と救援活動のためにつくった共闘組織。このころの、安保反対闘争などで高まっていた民主団体の統一行動が、伊勢湾台風の救援でも生かされたので す。

わけへだてない態度にびっくり

 高田正治さん(84歳、南医療生協元理事)は、「戸と戸の隙間から水がシューッと噴きだしてきたかと思う と、あっという間に一階が水没しました」と台風当日のようすをふり返ります。「水が引いて、泥かきをしているときに、二階を貸してほしいと頼まれまし た」。高田さんは、自宅の二階を救護所として民医連医療班に提供。「最初は半分迷惑だった」と笑います。
 「しかしすぐ、神戸の浦井洋先生や、耳原病院の今村雄一先生たちのわけへだてのない態度にびっくりしました。『おーい』『なんや?』『しっかりせーよー』『おう!』と気易いやりとりができる医者にはじめて出会いました」
 泊まっていた人たちの話し声がふすま越しに聞こえてくることもありました。「医療は金次第という世の中を怒り、金持ちも貧乏人も、医療は平等でなくてはならないと熱っぽく語る話に、温かみがあって感動しました」(高田さん)。
 当時の大阪民医連事務局長でその後、全日本民医連副会長となる峠一夫さん、のちに南医療生協の専務や理事長を務めた福田穣二さんたちの会話でした。

1年ちょっとで2つの診療所が

 医療班の活動は、被災住民の協力にささえられるようになりました。室生医師は「港区では集団避難所の被災 者のなかに、医療班の来る前に準備して、患者を集める人が出てくる。観音町では、水中に頑張っていた頃、医療班員に飲食物を届けてくれる人があった。…白 水で、災害救助法再延期署名を訴えたところ、一被災者は一晩で七百以上も集めてきた」(前出同窓会報)と、医療班と被災者の交流を記録しています。
 この救援活動で民医連を知った被災住民は、住民自身の手による民主診療所設立にむけて動き出しました。
 室生医師たち若き「オールドセツラー」は、民医連の救援活動をひきつぎ、「民主診療所設立協力医師の会」をつくって、他県にいる仲間にもよびかけました。よびかけに応えて、山梨にいた加藤昭治医師(のちにみなと医療生協理事長)などが帰ってきました。
 伊勢湾台風の救援活動から民診設立運動がうまれ、それから一年ちょっとの一九六一年、港区にみなと医療生協・みなと診療所開設、また南区に南医療生協・みなみ診療所がうまれます。
 室生医師は、できたばかりのみなみ診療所の所長に。「伊勢湾台風のころ、健康保険は家族5割負担、国保は名古屋市全体ではまだなかった時代です。自己負 担が大きく、医者の数も少なくて、医者にかかるのはたいへんなことだった。医師と国民に平等な関係はなかったのです。そんななかで、民医連が泥水にまみれ て住民といっしょになってがんばった。患者さんに親切に接する民医連に信頼がひろがりました」といいます。 

 名古屋に二つの診療所が生まれた年、民医連は臨時総会を開いて、「われわれの病院・診療所は働くひとびとの医療機関である」とうたう現在の民医連綱領を確定しました。

文・八重山薫記者

いつでも元気 2003.8 No.142

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