いつでも元気

2003年9月1日

元気スペシャル 「えひめ丸」もう一つのドラマ 安全な実習船もとめ、教師たちは立ち上がった

 七月七日、愛媛県立宇和島水産高校の実習船えひめ丸(五代目、四九九禔、猪崎満智夫船長)が、七四日間の遠洋航海実習を終え、宇和島港に帰港した。
 甲板で開かれた下船式では、上甲一光校長が「無事に帰港し、当たり前のことが当たり前に成されることの思いをしみじみ感じる」とあいさつ。このことばの 陰には、教師たちの大きなドラマがあった。

漁獲優先の実習が変わった
 五代目えひめ丸は、原子力潜水艦グリーンビルに衝突・沈没された、あの四代目えひめ丸 にかわって昨年一二月に竣工。今回が初の遠洋航海だった。事故に遭った篠藤大介さん(19歳、同校専攻科)を含む実習生一四人、指導教員二人、船員二〇人 の計三六人は、全員、けが一つなく帰ってきた。
 実習生を引率した古金啓先生は、新しい実習船で初の遠洋航海を「明治維新といってもいいくらい実習が変わった。漁獲優先の実習が教育主体に転換したので す」と振り返る。ハワイ沖での惨劇から二年半。古金さんが明治維新になぞらえた実習改革は、「亡くなった乗員九人の犠牲を無駄にしない」と立ち上がった教 員たちのたたかいによって実現された。

教育船に1億円のノルマ
 四代目えひめ丸沈没の後、地元の漁業関係者の間で妙な話がささやかれた。
 「実習生は勉強しよるのか、働かされとるのかわからん。(獲ったマグロを冷凍して入れておく)魚倉があそこまで大きくなかったら、もっと逃げられた。そ やから(愛媛)県も、アメリカに大きなことはいえんやろう」
 沈没事故の責任は一〇〇%米原潜にあったが、こうした話にも理由があった。
 四代目えひめ丸の魚倉は一八六立方神で全国の実習船中最大規模。またえひめ丸は船首から船尾までを貫く鉄板が一枚しかない一層甲板だった。漁獲物の取り 入れ口が低い位置に設けられ漁獲には向いていたが、その結果、生徒の使う生徒食堂やコンピューター室は船底に追いやられた。そこにいた生徒たちが逃げ遅 れ、被害を拡大したとみられている。
 実際、えひめ丸では何度避難訓練をしても、目標時間内に全員が揃ったことはなかった。とくに生徒の部屋を見回る教員は必ず遅れた。今度の事故でも、教員 は二人とも助からなかった。
 船の構造は、愛媛県教委がえひめ丸に一年で一億円以上という事実上のマグロ水揚げノルマを課していたことと結びついていた。その上、船員の半数を臨時雇 いにし手当てを水揚げに連動させることで、漁獲アップを図っていた。

牧澤先生の〝遺言〟
 漁獲偏重の問題は以前から指摘されていた。九四年、四代目えひめ丸を設計する際、教員 たちは船の形を一層甲板から二層甲板に変えて安全性を高めるよう県教委に要望した。二層甲板は、船首から船尾までを貫く鉄板が二枚あり、浸水に強い上、居 住区を上に置くことで安全性が増し居住スペースも広くとれる。
 要望の中心になったのは、海洋漁業科長の牧澤弘先生だった。ところが県教委は要望をはねつけ、旧来どおりの一層甲板を採用する。一層甲板の方がマグロ漁 に適している、というのが理由だった。牧澤さんは四代目えひめ丸建造後の九八年、レポートを書いた。
 「魚を獲らなければいけないという面が先に出て、生徒に技術を教えるという事がまったくできていない」「操業日数の長さは何のための四〇回なのだろ う」。漁獲優先の実習の弊害を明らかにした上で「海上での試練、それを乗り越えた後に得られる成果の素晴らしさは、その後の彼らの人生において必ず役立つ ことばかりである。より教育効果のあがる乗船実習のハード・ソフト両面について考えていかなければならない」と強調していた。
 その牧澤さんがハワイ沖の海底に沈んだ。古金さんたちには、牧澤さんのレポートが遺言と思えてならなかった。

「ワラにもすがる思い」で
 硬直した教育行政の下、愛媛の教員たちの間には蕫ものがいえない﨟空気が覆っていた。だが、宇和島水産高校の教員たちは、牧澤先生の蕫遺言﨟を胸に誓いあった。「今度は黙ってはいられない」
 そのとき、少数派ながら子どもたちと教職員のためにスジを通す活動を続けていた愛高教(愛媛県高等学校教員組合)から宇和島水産高校の教員あてに「何か お手伝いできることはありませんか」と手紙がきた。古金さんたちは「ワラにもすがる思い」でファクスを返した。直面している困難が連綿と綴られていた。
 自分のことのように一緒に考えてくれる愛高教の姿勢に感じるものがあった古金さんたちは組合に加盟、愛高教宇和島水産高校分会が結成される。牧澤さんの 親友・揚村勝幸先生が分会長になった。
 〇一年六月、揚村さんたちは愛高教の役員と一緒に県議会各会派に要請にまわった。惨劇の直後とあって、与党にも親身に話を聞いてくれた県議がいた。だ が、ある保守系県議は「水産高校は能力の低い生徒ばかりだから、今まで通りでいい。この財政難に何をいっているのか」と声を荒げた。県教委も新しい実習船 の検討会議を密室で開催し、水産高校が校長名で提出した要望書について「そんなものはきていない」と県議会でいい放った。

胸を打った集会発言
 苦しい状況が続いていた〇一年七月二〇日、宇和島市で被害家族を励ます市民集会が開かれた。司会者に促され、二人の水産高教員がマイクを握る。ベテランの古金さんと、若い遠矢新一郎さん。生徒を守れなかった深い反省に根ざした発言は、参加者の胸を揺さぶった。
 八月二八日には、事故で犠牲になった寺田祐介君(当時17歳)の母、真澄さんが加戸守行知事に手紙を出した。
 「立派な実習船とばかりに信頼していたえひめ丸が、生徒の命より漁獲を大事にするように作られていた船であったとは。私達がこの事実を知っていたら、息 子を乗せたでしょうか。祐介に申し訳ないことをしてしまいました」「万一の事を考えられて、安全で教育を重視した船が建造されますよう、大切な子を奪われ た親から切にお願い申し上げます」
 水産高の先生たちの勇気ある発言と遺族・寺田さんの手紙は、多くの関係者の心に響いた。それをきっかけに、地元マスコミで精力的な報道が始まった。支援 の輪も、全国の水産高校教職員から海で働く人たち、心ある県民に広がった。
 世論と報道に押されて、五代目えひめ丸は二層甲板に決まり、生徒用のスペースはすべて船の上部に設けられた。半数が臨時雇いだった船員も、全員が県の正 職員になった。牧澤先生の遺言が、大きな犠牲と長い道のりを経て、実を結んだ。

えひめ丸の船体に鮮やかな「宇和島水産高校」
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船員にも生徒を教える余裕が
 四月二八日からの内地航海を終えた五代目えひめ丸は、五月七日、ハワイ沖への初航海に 出発した。マグロ漁の操業回数は一航海四二回から二三回に減った。さらに「一回の作業時間も短くなって船員に余裕ができ、生徒に機械を操作させて教えるこ とができるようになった。船長や航海士も実務的な指導をみっちりやってました」(古金さん)。
 古金さんが「操業、明日で終わるぞ」といったとき、「えー、もうちょっとやりましょうよ」と元気な声が返ってきた。危険と背中あわせで二四時間逃げ場の ない船内生活は厳しい。だがそのなかに楽しさも感じた本科生九人のうち五人が「専攻科に進みたい」といい出した。漁獲優先を是正した実習によって、生徒た ちは海で働く意味を感じたようだった。

事故海域での黙とう
 六月一八日午前五時三〇分。四代目えひめ丸が沈んだ事故海域で全員集合し、長音三回の汽笛の後、黙とうを捧げた。
「事故で亡くなった人たちの魂は、まだ海底に沈んでるんじゃないか」。古金さんには、そんな気持ちが衝き上げた。原潜側の責任者が誰もきちんと責任をとら ず、再発防止策も不十分なままだからだ。生徒らの目にも光るものがあった。
 課題はなお多い。だが、漁獲優先を是正した実習は、たしかな成果をあげた。初航海に先立つ三月八日には新任の猪崎満智夫船長以下すべての船員が組合に加 盟し、愛高教えひめ丸分会を結成した。古金さんたちは仲間と手を携え、水産教育の改善のために努力を続けている。

写真・吉田一法

いつでも元気 2003.9 No.143

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