いつでも元気

2003年12月1日

国立ハンセン病療養所「栗生楽泉園」 重監房復元の運動が

忘れてはならない日本の“アウシュビッツ”
「らい予防法の象徴」と語る谺雄二(こだま・ゆうじ)さん

 「重監房は、いうならばらい予防法の象徴です。なぜ国が、隔離の必要などまったくなかったハンセン病患者を強制収容し、なぜそれが一世紀近くも続 いたのか。その真相を明らかにし、後世に伝えるために、重監房の復元保存を、という運動をはじめています」と谺雄二さん(ハンセン病全国原告団協議会会長 代理)。
 群馬県草津にある国立ハンセン病療養所「栗生楽泉園」の重監房とは何なのか、谺さんにききました。

患者が撲滅の対象に

 重監房は「特別病室」という名がついていましたが、実態は幾重もの高い壁に囲まれた懲罰施設・監獄でした。
 日本でハンセン病について最初にとられた政策は、一九〇七年(明治40)の「癩予防ニ関スル件」。すでにらい菌が発見され、感染力が弱いことがわかって いたにもかかわらず、患者を取り締まり隔離する政策でした。らいは、天皇が統治する国家にあるまじき病、国の恥、日の丸のシミというふうにいわれて、私た ちは撲滅の対象であったのです。
 一六年(大正5)には「癩予防ニ関スル件」を改正して強化し、療養所長に「懲戒検束権」が与えられ、療養所内にさらに「監禁所」がつくられました。
 一九三一年(昭和6)、満州事変のおきたこの年、「癩予防法」が制定され、患者の隔離収容が強化されます。それまで収容対象になったのは家を離れ放浪し ている患者だけでしたが、ひっそり人目を忍び、家で静養している患者まで、すべて収容するとしたのです。
 同じ年、貞明皇后(大正天皇の妻)の御下賜金を資金に、らい予防協会が設立され、「無らい県運動」がはじまります。らいのない県にするという大運動で、 らいは恐ろしい伝染病だという大宣伝で偏見をうえつけ、患者狩りを奨励しました。
 その結果、療養所の定員が大きくオーバーしてしまった。もともと予算が微々たるところに、食事も衛生材料もほんとうにひどいことになった。六人部屋に八 人も九人も押し込む。当然、怒りが渦巻いて患者暴動のようなことがおきます。
 岡山の長島愛生園では、入所者の自治会を認めろという暴動がおき、香川の大島青松園ではラジオ事件というのがありました。寄贈されたラジオを集会所に 飾っておき、外から見学者がくるときだけ入所者に聞かせた。そんな馬鹿なことがあるかと、ラジオを海岸に捨てたのです。
 光田健輔ら所長連盟は反省するどころかもっと強圧的な監獄が必要だといって、建てたのが栗生楽泉園の「特別病室」です。一九三八年(昭和13)のことで す。

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礎石だけ残る「重監房跡」。房は屋根のない通路で
一室ずつ隔てられ、冬は通路に雪が積もった

長靴を要求した洗濯場主任が

 どんな人が入れられたかというと、たとえば山井道太さんという、東京・多磨全生園の洗濯場の主任。四一年(昭和16)の話です。療養所といっても、園内 の作業は、患者がみんなやっていたんですからね。重症者の病衣や敷布、包布、ガーゼや包帯の洗濯。新品など滅多にない。千人もいるのですから大変な量で す。
 ここで五、六人が働いていましたが、長いこと長靴に穴があいたままになっていた。洗濯場ですから水が入り込みます。
 ハンセン病で大変なのは、治っても知覚マヒが残ることなんです。とくに足首から下とか手首から先は知覚がない。そうすると痛いとか熱いとか感じないか ら、すぐ傷をつくってしまうのです。
 傷ができたからといって仕事は休めないし、包帯が濡れると傷が悪化する。それがずっと続いていた。だから何とか、穴のあいていない長靴がほしい。
 戦争中で物がなかったのかというとそうではないんです。ハンセン病療養所には、どこでも長靴はありあまるほどあった。なぜかというと、患者が住んでいる 地域を不潔地帯といって、職員は長靴で入ってくるのです。医学生とか婦人会とかが参観にくるときは五〇人くらいできますが、長靴をはかせる。だから長靴は いつもたくさんあったのです。
 たまりかねて山井さんが、これでは仕事ができない、休もうといって、二、三日休んだ。そうしたらストライキとみなされて、煽ったのは山井だということに なって連行されたのです。一カ月あまり入れられ、出されたときは廃人同様で、まもなく亡くなってしまいました。

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人権闘争後、自治会が建てた碑

533日拘留され死亡

 なんと五三三日間、亡くなるまで入れられていた満八十山という人がいます。これが一番長い拘留期間といわれます。
 この人は病気は治っていていて治療を受ける必要がなく、園を抜け出て大阪で古物商をし、園を逃げ出した患者をかくまったりしていた。それが盗品の自転車 を買ったことを理由に逮捕されのです。
 奥さんもいっしょに連行され、重監房に入れられました。奥さんは途中、死んだと思われて房を出され、運よく息を吹き返した。生き返って、この人は、戦後 の人権闘争のとき、証言に立ちました。

零下20度。寒さと飢えで

 つまり、たてつく者は「草津送りだぞ」というだけで、全国の入所者を震え上がらせる施設が「特別病室」重監房でした。
 一九四七年(昭和22)の人権闘争でこの特別病室は撤退されますが、一九三九年から四七年までの間に入れられた者は記録に残っているだけで九二人。獄死 した者は二二人です。出てすぐに死んだ者が三〇人以上います。
 戦後、私も中に入ってみましたが、壁も床も板敷きで四畳半。上の方に縦一五礼、横七〇礼くらいの明かりとりの穴があいているだけで、暖房はもちろん電灯 もつかない。この辺りは、いまは零下一三度くらいしか下がりませんが、当時は二〇度に及んだ。入れられた者は、寒さと飢えで死んだのです。罪もなく、裁判 もされず、所長の恣意で。
 この事実を風化させるわけにはいきません。患者は高齢化し、やがて死んでいきます。重監房は、アウシュビッツに匹敵する負の遺産です。国が、二度と同じ 過ちをすることがないよう、形として、どうしても残しておきたい。

文・西原博子記者/写真・酒井猛

国立ハンセン病療養所 栗生(くりゅう)楽泉園・重監房の復元を求める署名 PDF(18KB)

重監房の復元を求める会ホームページ http://www7.plala.or.jp/jukambo/

いつでも元気 2003.12 No.146

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