MIN-IRENトピックス

2016年11月8日

第13回看護介護活動研究交流集会in新潟 記念講演 森元美代治さん ハンセン病を生きて ~尊厳回復の願いと私のたたかい~ 逃げ回ることはやめた 歴史繰り返さないために

 看介研の記念講演をハンセン病回復者の森元美代治さん(78)が「ハンセン病を生きて~尊厳回復の願いと私のたたかい~」と題して行いました。講演要旨です。

 ―話を始めるにあたり森元さんはネパールのハンセン病患者を訪ねた際のVTRを上映しました。国によっては今も未解決の病であること、そして、療養所の映像に多くの子どもたちが映っていることを森元さんは「日本の療養所との大きな違い」と語り、ハンセン病患者たちに、子どもを産むことを禁じた(妊娠した患者の強制堕胎や、男性患者の断種が横行)日本の政策の誤りを指摘しました。

■14歳で診断、 隔離

 一四歳で医師からハンセン病と診断され、鹿児島・奄美大島のハンセン病療養所(国立奄美和光園)に隔離されました。
 療養所内の高校を卒業し、病気も落ち着いたので大学をめざしました。本格的に勉強しようと東京都の多磨全生園に転園。内緒で予備校に通いました。患者を園から出さない為の監視がいるので脱走です。一年で三回も捕まりました。
 それでも耐えて勉強し、慶應大学に合格しました。
 主治医に退園証明書の依頼をすると「君は『らい』(ハンセン病の別名)であることを忘れたか?」と返ってきました。大学に行くため療養所を逃げる決意をしました。園ではこれを「逃走患者」と呼びます。

■ハンセン病隠す

 大学での四年間、クラスメートに自分がハンセン病患者であったことは隠し続けました。言えば追い出されたでしょう。就職にも影響したに違いありません。企業には、「職員が『らい』と分かればクビにしていい」という内規を作っている所もあったからです。
 一九六六年に大学を卒業し、都内の金融機関に就職しました。ここでも、病気のことは伏せました。
 しかし、四年後に再発しました。ここまできて療養所に戻るのは嫌でしたが、ハンセン病の治療は療養所しか行っていません。休職の申し出も聞き入れられず、病には勝てませんでした。病気のことを打ち明けて再び全生園に入りました。三二歳でした。

■闘病のなかで

 病気で全身が痛み、頭まで布団をかぶって泣く日もありました。不思議なことに、泣くとわずかに痛みが和らぎます。麻薬を打つと脳がおかしくなり、指に指示が行かなくなります。神経を殺してまでも、痛みを止める、そんな麻薬は嫌いでした。
 三日三晩飲まず食わずで痛みに耐えていた深夜、巡回してきたある看護師が、自分の牛乳を温めて持ってきてくれました。患者に私物を与えてはいけないとされた業務規則に違反して。今まで口にした何よりもおいしかった。「心」を感じました。マリア様が降りてきたようでした。
 劇薬を投与され、体かららい菌はなくなりましたが、副作用がひどく、拘縮した指は元に戻りません。

■人権取り戻すために

 らい予防法という誤った法律は一九九六年まで存在しました。戦前は「座敷豚」と蔑まれ、多くが本名を捨てて生きました。一族からハンセン病が出たことを隠すためです。
 戦後も、憲法で保障されているはずの自由を私たちは奪われてきました。元患者が起こした裁判で、二〇〇一年に「憲法違反」と認められるまでハンセン病患者に憲法は「絵に描いた餅」でした。憲法よりも予防法が上でした。

*    *

 医学の飛躍的な進歩で「らい」は日本からなくなりました。しかし、人権の問題は残されています。
 ハンセン病患者の隔離、迫害の歴史は人類最大の過ちです。二度と繰り返されないよう、訴え続けます。
 一九九三年に多麿全生園の自治会長に就任し、運動に力を入れました。逃げ回る生き方をやめ、各地でハンセン病の実態と体験を講演し、本も出しました。
 テレビに出演した際、患者たちは非常に喜んでくれましたが、親族は「何ということをしてくれたのだ」と怒りました。しかし、踏み出した一歩から引き下がることはしませんでした。

文責・田口大喜記者

(民医連新聞 第1631号 2016年11月7日)

お役立コンテンツ

▲ページTOPへ