民医連新聞

2017年3月21日

相談室日誌 連載424 原爆症認定を求めて被爆者に寄り添って(長崎)

 Aさん(女性)は一九四五年当時、一四歳、八月九日の原爆投下時に学徒動員で働いていた軍需工場で被爆しました(爆心地より三・三km)。幸いケガはなかったものの、原爆で広がった火災の勢いが強く、帰宅できませんでした。一夜を明かして、自宅周辺(爆心地より一・二km)へたどりつきましたが、自宅も近隣も焼け、跡形もありませんでした。呆然としていると、近所の人が家族の避難先を教えてくれ、再会できました。しかし、一週間後に弟が、一カ月後には子ども達を看病していたお母さんも急に亡くなりました。Aさんは、ケガした兄と妹達(一〇歳と八歳)を看病しながら、四人で救護所を転々としたそうです。
 二〇一四年、Aさんは八三歳になりました。末の妹さんのすすめで、一〇月に「甲状腺機能低下症」で原爆医療特別手当を申請しました。妹さんは神奈川県に住み、原爆症集団訴訟で「左手火傷による第二指~五指切断後遺症」で認定されています。ところがAさんには翌年四月に「却下」通知が。妹さんは息子さんに付き添われ何度も来崎し、申請手続きに奔走しました。一六年六月に行った不服申立でも、主治医意見書を添え口頭陳述に厚労省に出向くなど、主体的に動きました。そして一一月、「認定を勝ち取れた」と嬉しい報告をくれました。
 医療特別手当は、二km前後で被爆した人が、がん病名で申請しても認定が大変厳しく、二〇〇三年からの集団訴訟によって司法が認定のあり方を断罪し、国が一定の基準見直しを行うに至りました。ところが今なお残留放射線を無視した厳しい線引きによる却下があいついでいます。こうした中、今回は一度却下されたものの、不服を申し立て、口頭陳述をして認定となりました。口頭陳述は厚労省の調査官と対面し、申請者または代理人が意見や思いを述べます。ただし、調査官の答弁はなく、申請者側が陳述するだけの場です。筆者も経験しましたが、話しても虚無感すらあるほどです。今回の「非がん病名」での認定の教訓をいま一度精査し、被爆者団体とも連携し、被爆者に寄り添い今後の「認定被爆」の運動の糧にしたいと思います。

(民医連新聞 第1640号 2017年3月20日)

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