いつでも元気

2004年6月1日

みんいれん半世紀(18)東さん原爆訴訟 慢性C型肝炎をはじめて「原爆症」と判定

 「完全勝訴」に大きく貢献した2医師の証言

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勝訴判決を受けて語る東さん

 「あんなうれしそうな東さんを見たことがない」。ある人はそういいました。
 三月三一日。東京の被爆者、東数男さん(75)が慢性C型肝炎の原爆症認定をもとめていた裁判で、東京地裁の勝利判決が出た日のこと。「申請から一〇 年、提訴から五年。長かった。やっと認められてうれしい」と語ったとき、東さんにしては珍しい笑顔が一瞬こぼれたからです。
 このニュースを、遠い空の下で、特別の思いで見た医師がいます。「東さんは頑固一徹で、だからこそ信念を通され、理不尽を突き崩したんでしょう」と自分 のことのように喜ぶのは、長野県上田市にある川西生協診療所長の渡辺昭夫さん。東さんが厚生省へ申請した一九九四年、医師として意見書を書いたのが、当時 かかりつけの東京・立川第一相互病院(いま立川相互病院)にいた渡辺さんです。
 意見書には、東さんの肝機能障害は「原子爆弾の放射能によることが否定しえない」とあります。しかし厚労省は「C型肝炎はウイルスが原因で、原爆とは関 係ない」と申請を却下。東さんは処分取り消しをもとめて裁判をおこしました。
 東裁判でも、民医連は、申請の入り口で協力した渡辺医師にはじまって、大きな役割をはたしています。
 「支援組織『おりづるネット』では東京民医連の医師が事務局次長や世話人をつとめ、若者たちの支援組織『ピースバード』でも若い職員たちががんばりまし た。いま被爆者は全国で集団訴訟をたたかっていますが、東京の支援運動はその先鞭をつけ、けんいん車になっています」(健生会理事長の児島徹さん)
 

「権力で認定基準おしつけるとは」

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肥田さん

 とりわけ、「法廷で決定的ともいえる貢献」(弁護団の一人、宮原哲朗さん)をした二人の民医連医師の証言があります。
 一人は、自身も広島の被爆者で、「もっとも多く被爆者を診ている」といわれる肥田舜太郎さん(日本被団協中央相談所理事長)の証言(01年10月)。
 肥田さんは、軍医としてみた被爆地広島の生なましい体験から、その後の被爆者治療、アメリカやチェルノブイリ調査などをふまえて、とくに低線量被ばくの 重要性を強調。「私に脈をとられて亡くなった被爆者はたくさんいる。被爆後長く放置され、飢え死にした被爆者もいる。被爆者救済にまったく気のない政府 が、いまになって権力で認定基準を押しつけるのは許せない。私は85歳。まもなく死ぬだろうが、このことは遺言として残しておきたい」と語り感動を与えま した。
 

「これほど全力投球したことない」

 もう一人は、広島で日ごろ被爆者医療にあたり、東裁判に三つの意見書を提出し、証言(02年3月)した斎藤紀さん(福島生協病院院長)です。

 斎藤さんは三つの意見書について「これほど全力投球したことはない」といいます。なぜか。「あまりにも頭にきたからです」
 というのは、国、および国側証人(戸田剛太郎慈恵医大教授)が「肝臓に影響を与える放射線量は1000ラド」とのべ、東さん(厚労省による推定線量は 130ラド)への影響を否定したからです。1000ラドといえば致死量です。それを超えなければ肝臓障害はおきないという珍論は当時ひろく怒りをよびまし た。

 斎藤さんは、東さんが被爆直後に受けた日米合同調査団の調査書をもとに、原爆が人体にどんな残酷な傷害を与えたかを詳細に論じました。弁護団が発見した 東さんの調査書について「被爆者とのつきあいは長いが、これほど克明に医学的所見が一個人について書かれたものを見るのは初めて。私は非常におどろき、被 爆者のことを思えば胸が打たれる思いで分析した」と語り、傍聴者の感動をよびました。

被爆により免疫力が破壊された

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斎藤さん

 東裁判の地裁判決は「全面勝訴」というより「完全勝訴」となりました。訴えが通っただけでなく、肥田さん、斎藤さんら原告側の主張を受け入れ判決文に採り入れた、判決の中身がいいからです。
 判決は、被爆が原因で免疫能力が破壊されC型肝炎を発症・促進したと見ることが合理的だとして、C型肝炎を初めて原爆症と判定したのです。初期放射線の 影響だけを基準とし、それもごく小さく軽いものとする国の認定のあり方をきびしく裁いた点でも、残留放射能(東さんは川の水を大量に飲んだ)の影響を明快 に指摘した点でも、画期的な内容でした。
 東裁判だけではありません。被爆者はこれまで多くの裁判をたたかっていますが、そこにはいつも民医連の協力がありました。桑原訴訟(六九年提訴、脊椎円 錐上部症候群)、石田訴訟(七三年提訴、原爆白内障)で意見書を書いたのは、福島生協病院院長だった田阪正利医師。広島には原爆病院もありますが、当時、 法廷にもかかわる意見書を書いてくれる医師はほかにありませんでした。一二年の裁判のすえに最高裁で勝利した松谷訴訟(八八年提訴、脳損傷)では、長崎民 医連から事務局員として牧山敬子さんを派遣、裁判勝利の世論をひろげました。

戦後史を別の角度から学ぶ

 こうした裁判がつづいたのは、被爆者が原爆症認定を申請しても、国の壁があまりに厚く、かたっぱしから却 下されるからです。個々の裁判で勝っても国の態度は変わらないため、個人の救済より「制度そのものを変えよう」と二〇〇三年には集団訴訟がはじまり、いま 全国一〇の裁判所で一三〇人をこえる原告がたたかっています。民医連はその集団訴訟でも被爆問題委員会(聞間元委員長)を中心に各地で支援をすすめていま す。
 来年で被爆から六〇年。斎藤紀さんは「次世代をになう青年が被爆者にかかわり、原爆投下や被爆者について学ぶことは、戦後史を別の角度から見ることでも ある。民医連とは何かを学ぶうえでも大事な意味があり、若い医師や職員のこれからに期待したい」と話しています。
 文・中西英治記者

いつでも元気 2004.6 No.152

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