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2017年6月6日

Borders 時々透明 多民族国家で生まれて (5)数

 冬の遠足。風が鋭く吹く日だった。黄色いバスに乗って高校から町の中心へ向かった。普段の遠足では興奮してやかましいが、その日、バスの中で会話は少なく、淀んだ空気に緊張感がただよった。僕は無言のままくたびれたバスのエンジン音を聞いていた。ようやく灰色の中心街に降りると、乾いた風が細く鳴った。寒い。僕らは行列して映画館に入った。ホロコーストの歴史を学ぶために、スピルバーグ監督の『シンドラーのリスト』を観るのだ。
 悪、苦しみ、そして希望を、僕たちはモノクロで3時間にわたって観た。当初は、ユダヤ人を安い労働力くらいにしか見ていなかったシンドラーというドイツ人実業家が次第に変化し、1100人以上のユダヤ人をガス室から救うという話だ。とは言え、心に残ったのは悪とその悪がもたらす恐怖だった。
 映画館を出てまた冷たい風を顔に感じ、映画の場面を即座に思い出す。強制収容所の前で白い息と寒さに揺れている体。慈悲のない冬の夜と体に流れる熱い血液。命と死の間のいかにも薄い境となる肌。我にかえり深呼吸をした。まだ自分が生きていることを確認しながらバスに乗った。学校への帰り道を一切思い出せない。
 ナチによるホロコーストは高校で勉強した。1939年、世界のユダヤ人口は1700万人ぐらいだった。6年後の1945年は1100万人だった。つまり、3分の1のユダヤ人が虐殺されたのだ。第二次世界大戦で亡くなった日本人の2倍の人数だ。ナチの目的はユダヤ人の全滅だったが、僕が育ったアメリカはこのことに基本的に無関心だった。真珠湾攻撃があるまで動かなかったし、ナチから逃げてきたユダヤ人難民も受け入れなかった。僕は、家族からもホロコーストの話を聞いていた。リトアニアに住んでいた母方の親戚たちは戦争で消えた。同国もドイツのナチの占領下にあったが、詳細は分からない。写真も残っておらず、名前しか知らない。
 シンドラーのリストのような映画は、犠牲者の数と名前に深みを与える。物語から人間性が伝わる。でも、映画を観て引っかかる点もあった。僕は時々聞く反ユダヤの言葉をどこまで心配するべきか? 深いところに同じ反ユダヤ主義が静かに潜伏し、状況が変わったらまたナチのようなものが這い出てくるのか? 答えまで辿り着かなかったけれど、その後長い間、反ユダヤの言葉を聞くたび、真冬に強制収容所の前で並んでいるユダヤ人たちの場面が頭に浮かんでいた。


文 ヘイムス・アーロン 東京在住のユダヤ系アメリカ人。セントルイス・ワシントン大学院生、専門は人類学。1977年生まれ、ネブラスカ州育ち

(民医連新聞 第1645号 2017年6月5日)

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