MIN-IRENトピックス

2017年6月8日

6年目の福島Ⅵ 県外避難者の思い

フォトジャーナリスト 豊田直巳

 原発事故から6年。福島県の避難者数は、県の発表だけでも約8万人。そのうち3万9218人が、北海道から沖縄まで県外に避難を余儀なくされている。同じく震災による県外避難者が1310人の岩手、5388人の宮城と比べても、福島の放射能汚染の深刻さは顕著だ。
 石川県金沢市から新幹線を乗り継ぎ、民医連の桑野協立病院(福島県郡山市)に通う医師がいる。震災前は郡山市の診療所院長だった種市靖行さん(52)。桑野協立病院で2015年2月から毎月1回、子どもの甲状腺エコー検査を担当している。
 6年前の3月15日午前3時、郡山市から妻の実家がある金沢市に緊急避難した。ところが、長女が通う小学校から卒業式開催の知らせが入り、「仕方なく」3月末に帰宅した。
 県内の放射線量はなかなか下がらない。子どもにストレスを与えていることにも気づいて、1年後には妻子を帰さないつもりで金沢市に移住させ、2014年には自身も拠点を同市に移した。避難により飲食物や子どもの外遊びへの不安は解消された。今では「もっと早く避難させるべきだった」と悔やむ。
 子どもは友人との別れに理不尽さも感じていたようだが、一方で「自分たちが大切にされていると理解してくれた」と種市さん。安心感は得たとはいえ、自宅や診療所を失っただけでなく、これまで培ってきた地域の医師や住民との関係を断ち切られた損失は大きい。
 移住先で病院勤務医の職を得たが、それでも毎月、郡山に通う。整形外科医だが、福島県独自の甲状腺検査の認定資格を取得。福島の子どもたちの健康のため、そして診察の合間には自身の経験を踏まえて同じように不安を抱える親に助言もできるからだ。
 「6年間はあっという間。原発事故後にはさまざまな方と知り合うこともできて、それなりに有意義な時間だった」と種市さん。気持ちに余裕があるのは「どこに行っても仕事ができる医師という職業だからかもしれない」と付け加えた。

京都との二重生活

 福島市の映画館「フォーラム福島」支配人の阿部泰宏さん(54)は、3カ月に2回、妻とこの4月から高校生になった長女の避難先の京都市まで、車で往復する「二重生活」を続けている。
 原発事故発生時には山形に、さらに3月18日には母親と妻子を北海道に避難させた。「事故の状況が分からない中で最悪の事態を想定した。なるべく遠方、最低でも直線で500㎞は離れた場所へ」と考えたからだ。 
 しかし、自身は仕事場を離れられなかった。「生活ができなくなるから、我慢するしかなかった」。原発事故が落ち着いたかにみえた4月下旬には、放射能汚染が低いと言われていた福島県西部の喜多方市に避難した。
 ところが、雪解けとともに同市の線量が上昇。持参の線量計でこまめに放射線量を測定していたことから、実感として分かった。「雪解け水に放射性物質が大量に含まれているのかもしれない」と阿部さん。県内の避難では子どもを守りきれないと感じた。
 ちょうどその頃、京都市営住宅の避難者受け入れ情報を耳にし、4度目の避難先に選んだ。「避難先を転々としたため、娘のストレスはすごかった。でもやむを得なかったし、後になれば分かってくれると信じていた」と振り返る。
 今年3月末で県外避難者に対する福島県の住宅支援が打ち切られた。費用はかかるが、阿部さんは妻子を福島市に戻す予定はない。子どもへの放射能の影響が心配だからだ。
 公的支援は経済的負担の軽減だけでなく、避難が「自己責任ではない」ことの証し。避難指示区域を解除し支援を打ち切る政策は、まるで国民から原発事故を忘却させたいかのように映る。
 阿部さんは言う。「帰還ありきの政策は、避難者を〝あいまいな存在〟〝見えない存在〟にしてしまう。このままでは避難者が被害者であることが分からなくなり、人々の間に不信と分断を招く」。
(おわり)

いつでも元気 2017.6 No.308

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