いつでも元気

2004年9月1日

特集1 子どもが子どもらしく生活できないおかしさ 対談 佐世保事件が訴えるものは…

極端なストレス社会のなかで 山下さん

おとなの人間関係の薄さが… 正木さん

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山下雅彦さん

九州東海大学教授(教育学)

 ことし六月、長崎県佐世保市で小学校六年生の女児が同級生を殺傷するという事件がおき、社会に大きな衝撃 を与えました。あいつぐ事件から、いま考えていかなければならないことは何なのか、九州東海大学教授(教育学)の山下雅彦さん、福岡・千鳥橋病院小児科医 師の正木公子さんに、話し合ってもらいました。

「特別な子」の問題ではない

 山下 佐世保の事件では、平日の学校で、小学生が…と、ショックでしたね。

 正木 子をもつ親としては他人事とは思えません。先生はどんな視点が必要だとお考えですか。

 山下 私も特別な子がやった、とは考えません。もちろんどの子もそうなるというわけではあ りませんが、同じ日本の空気を吸って、同じ文化状況、同じ教育システムのなかに生きているのですから、いつ誰が被害、加害にあってもおかしくない。ただ、 条件が三つ四つ重なったときに、スポッと突き抜けて起こってしまうというイメージでとらえています。危機は日常生活のなかにはらまれていて、すそ野は広 い。

 日本の極端なストレス社会が子どもたちにさまざまな障害を生んでいる--これは国連「子どもの権利委員会」が一九九八年に日本政府に発した勧告ですが、この指摘どおりです。子どもたちが、生きる上での不安とか孤立感とか、勉強漬けとか、大変なストレスのなかにいる。

 子どもが子どもらしく生活できないおかしさに目を向けて、そのおかしさを変え、日常生活を丁寧につくっていくことが必要だと思います。

 その点で、監督官庁の対応にはまたかと、憤りさえ覚えます。事件の翌日、文部科学大臣が「心の教育が足り ん」「命の教育をしっかりしろ」などといったでしょう。担任の先生は、自分のクラスから加害者と被害者の両方を出し、あまりのショックで学校に来れなく なっていた。当然ですよね。その先生に「子どもたちと一緒に学校でがんばってほしい」と。何をどうがんばれというのでしょうね。

 みんなでどうやって支えあっていくのか、教育行政に何ができるのか、一生懸命考えるべきときに、精神主義 的にがんばれがんばれと。そしてナイフが問題だ、持ち物チェックをしろとか、パソコンやインターネットのモラルが問題だとかいう。事件発覚直後で、ほとん ど何も明らかになっていないときにですよ。この異様な「軽さ」。ほんとうに無責任です。

わからなさを共有する過程が

 山下 学校の校長先生が、事件の翌日に記者会見をしました。二つの発言が目にとまりまし た。一つは「私も一生懸命、徳育の教育をやってきた(いまでいう心の教育ですね)、それが子どもに届いていなかった、無に等しいと実感している」と正直に おっしゃったことです。上からの心の教育が無力だったのではないか、このままでいいのか。僕は、そこから考え始めてほしいと思いました。

 もう一つは「学校がすべてを背負い込んでがんばっていきたい」といわれたことです。校長にも責任があるの は当然ですが、すべての子どもの問題を、学校が一身に背負うということがそもそもできるのか。僕はできないと思います。その頑張リズムや完璧主義がどれだ け子どもや先生方をきつくしていくか。

 いまこそ学校を開いて、親御さんといっしょに、子どもが安心して通える楽しい学校にするために、何が必要 なのかを考えていきたいというべきところを、学校にお任せくださいとまたいうのか。せっぱ詰まった追いつめられたなかでの発言ではありますが、ちょっと方 向が違うのではないかと残念に思いました。 

 九七年の神戸での小学生連続殺傷事件のとき、当時のPTAの会長さんがこう言ったんですね、「学校や地域をどうするかという結論を急いで出そうというのではなく、わからなさを共有する過程が大事だと思う」と。この言葉が今回もそのままあてはまると思います。

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正木公子さん

福岡・千鳥橋病院小児科医師

 正木 子ども社会はおとな社会のリアルな反映ですね。今回もおとなの人間関係の希薄さがそ のまま出た感じです。私も、子どもが保育園から小中高と、親として地域でつきあってきましたが、どんどん親が地域にいなくなりましたね。お父さんは寝に帰 るだけだし、お母さん同士もなかなかつながらない。とくに助け合うと意味でのつながりが薄い。

 うちの病院の総師長さんが、二〇歳代の看護師さんたちの暮らしが、ほんとうに大変だというんです。私は ちょうど五〇歳ですが、私たち世代の看護師さんたちは、夫婦で話しあってお互いがやりくりしたり、職場の仲間同士やご近所同士で子どもを預けあって子育て しあうみたいな助け合いがあった。いまは看護師という責任の重い仕事をしながら、母親一人が家庭と育児を背負い込んでがんばっている。だから子どもが病気 でもしたらどうしようもなくなっちゃうと。

 うちは民医連の病院ですからわりと人間関係があるところだと思うのですが、それでも大変な時代になってきている。職場でも地域でも家庭でも、おとな同士が助けあえなくなってきているし、だから、子どもにもなかなか手をさしのべられなくなっているんですね。

「子どもは常に二の次だった」

 山下 『バカの壁』の著者・養老孟司さん(北里大学教授)は、高度経済成長期以降の日本社会では、「子どもはつねに二の次だった」と言っています。高層ビル建設 やクルマ社会が子どもの居場所や遊び場を奪った。小学校低学年から全国の学校にパソコンを入れたのだって子どもの発達より、財界からの要求を優先させた結 果ではなかったのでしょうか。

 昨年、長崎で少年の事件が起きたとき、加害者の親に「市中引き回しのうえ打ち首」といった大臣がいました ね。養老さんは事件を親のせいにするこうした発言は「安易」であり、「ああいう犯罪が『子どもから大人に対する、暗黙の異議申し立て』かもしれないなどと いう考慮はどこにもない」と批判しています。

「打ち首」発言にはこういうことを言っても国民に受け入れられるだろうと思うような右傾化、もうファシズムといっていいくらいの歴史の逆行が反映しています。それは卒業式での「日の丸君が代」押しつけ問題に端的に表れています。

 日ごろの学校運営も子どもが中心ではなく、上から「心の教育」やコンピュータ教育を押しつけていく。一九 六〇年代までは子どもの自治が大変大事にされてきました。それがどんどん骨抜きにされ、学校が、子どもにとって自由と自治の体験をするほんとうの学習の場 ではなくなってしまう。しかも学校五日制のあおりで、楽しいはずの学校行事も減らされる。学校は大事な生活の場なのに、子どもにとってきついところになっ てきています。

 学校でも地域でも家庭でも、子どもたちから「子どもの生活」「子ども時代」が奪われているんですね。奪われた「子ども時代」をとりもどすこと。いまそれが一番大切だと思います。

一家団らんが失われた現代

 正木 私は地方の生まれですが、子どものころ夕飯にはどこの家庭でも父親がいました。いま 夕飯を一緒に食べる家庭ってそんなにないですね。昔は、大体五時、六時に仕事が終わって、通勤距離が長くないから六時ごろからご飯食べて早々とお風呂に 入って、みんなで散歩したり、花火したりして一家団らんがあった。電化製品がないから、父親も家事をしないと家の中が切り盛りできない。大掃除をはじめ、 けっこう男の人が家庭の中でしっかり役割をもっていました。

 山下 このイラスト(上)は熊本県山鹿市で紳士服店三代目を営む榊建盛さんが描いてくれたものです。「昭和三〇~四〇年代の子どもの世界」。ある子育てセミナーで出会って、彼の体験がじつにおもしろかったので描いてもらったんです。

 正木 よく覚えてますねえ。すごい。

 山下 それだけ中身のつまった、鮮明な思い出なんですね。陣取りで広場に子どもがあふれ、 路地裏を子どもがしょっちゅう走っていた。おとなが「危にゃ!飛び出すと人にぶつかるぞ」と。車ではなく、人にぶつかるにぎわいだったんです。温泉では泳 ぎの練習をしてます。おとなは少々迷惑でも大目に見ている。泳ぎの基礎が身についた子は菊池川で蕫デビュー﨟する。ある年齢になったら、「向こう岸まで渡 れ」と、大きい子が挑発する。おぼれそうになったら、浅瀬があったり釣りをしているおっちゃんも助けてくれる。必死の覚悟で渡れたら「一人前」と認められ る。

 私が「子ども時代」というのはこういう生活です。昔に戻ることはできませんが、子ども時代の豊かさとは何か、問い直すべきときではないでしょうか。

山下さん 汗をかき、体で遊びきって

正木さん 言葉の発達も遊びのなかでなど

自分の思いを言葉にできず

 正木 遊びって大事です。子どもが言葉を生きいきと出せるのは、遊びなんですよね。遊びも一人じゃだめで、相手がいて、楽しいとかいやだとか、生の感情のやりとりがあって言葉は発達する。そこがまず根っこでしょうね。

 今回の事件でも、あの女の子が何で思いを言葉にできなかったのか。パソコンのチャットに書き込むのではなく、「私はあんなこといわれてすごく傷ついた」と口でいっていれば、「ごめんね、もういわないから」と。それですむことではなかったのかと思うんです。

 小学校の高学年から中学校に向けて、とくに女の子は、小さなグループがくっついたり離れたり除け者にした りされたりしながら成長します。これ以上いうと傷つくとか、悩んでいるとき声をかけてもらってうれしかったとか、いろんな言葉や感情のやりとりのなかで、 人間関係をつくる力が育つと思うんです。

 それがいま、隣にいても直接話さないで、黙ってメールしてるでしょう。怖いですよ。メールって、自分の思 いや考えを伝えるというものじゃないでしょ。子どもたちが自分の思いを言葉にすることがとても下手になっていると思いますね。いきなりぶち切れて、バカと か死ねとか、短絡的な結論にもっていったり。

 まず会話ができる、コミュニケーションができるということが大切で、そのためにも遊びを、と思いますね。

 山下 からだで遊びきる、一日一回は汗をかく。それがないために体温調節機能や自律神経の 成長が弱くなって朝は低体温、昼になると高体温というような子がふえていると正木健雄さん(日本体育大学名誉教授)が指摘しておられますね。とくに押しく らまんじゅうとか飛び馬とか、鬼ごっことか、他人と体をぶつけあうような遊びが大事だと。子どものなかの〈自然〉が奪われて、そこからいろんな異変が起 こっているように思います。

 いまの日本社会は、能率、効率といって先へ先へ急ぐ。無駄に見えることのなかに大事なものがあるんです。 泥団子づくりに子どもは夢中になる。加用文男さん(京都教育大学教授)もおっしゃるように、それが将来どう役に立つかというようなことではなく、子ども時 代に、「ああ、きょうもおもしろかった」という充実した生活があることが大事なんです。

 子どもたちがゲームにはまっちゃってとおとなは簡単にいうけれども、子どもが遊ぶ場所がないんですからね。

 正木 ゲームなら畳半畳あればいい。

 山下 暴力文化の問題もあります。テレビやゲームで暴力があふれている。即まねをする子ど もはいないと、テレビ局の人は言うらしいんですが、心理学の一つのキーワードに「脱感作効果」というのがあります。暴力に慣れっこになる、感覚が鈍ってし まうということで、目の前でいじめがあっても殺人があっても、感じなくなってしまう。これが怖い。

 正木 戦闘シーンの多い暴力的ゲームではリセットを押せば人が何回でも生き返ってボカボカやりあう。あのなかにはまってしまうと、人の命を奪うことの恐ろしさが分からなくなるんじゃないか。

 それにしても、人の命を奪うというのはものすごく大それたこと。思うこととやることは違うとよくいいます が、あいつなんていなくなってしまえと思っても、どこかで歯止めがかかる。どこかといったら、親を悲しませたくないということではないでしょうか。命が大 切だとか、かけがえがないとか、いろいろいうけれど、具体的な行動に出る歯止めになるのは、家族につらい思いをさせてはいけない、家族を悲しませたくない ということだと思うのです。その家族の人間関係も弱くなっているんでしょうね。

“おとなもつらい”から

 山下 家庭のなかでだって、もっと命の話などたくさんできるはずなのに、それが消えているというのは、いびつな仕事中心、長時間労働で家庭がもぬけの殻という、そういう働き方、働かせられ方の問題が相当大きいような気がします。

 熊本在住のフランス人の看護師さんが話しておられましたが、「フランス、イタリアではバカンスで四週間とか、まとめて休みをとります。日本のかたは、それを伝統だと思っているようですが、伝統ではなく、労働組合を中心にたたかって、かちとったものなのですよ」って。

 正木 なるほど。日本はレジャーまでお仕着せです。自然のなかで家族とゆったり過ごすなんてゆとりはないですね。

 山下 子どももつらいけど、おとなもつらいんです。だから、いろんな場所でまずおとな同士が本音で語り合い、仲良くなるということが大事だと思いますね。子育てでも、子どもを真ん中にとか言いすぎると、親がきつくなってしまって、保育者や先生となかなか交われない。

 若い世代の方は、小中高と受験、競争というものがすごく大きくて、点数をつけられる、成績で人間が決まる という価値観が染みついていて、子育てでも、いつも評価されているような、自分の成績表が書かれているような、そういう考え方をする人が多いです。点数抜 きに失敗を認めあったり助けあったり、お互いをさらけ出して気持ちを通じあう、そういうことがあまりないように感じます。子どもを脇においてでも、まずお とな同士が仲良くなることです。

 正木 おとながまわりの人ときちんとつながってゆくことが大事ですね。

 家庭でも、しっかり夫婦げんかしてしっかり仲直りするところを子どもに見せないといけない。お父さんとお 母さんが仲がいいときもあれば、けんかしてるときもある、ちゃんと話しあっているときもある。人間というのはそんなに一方通行でもないし一回けんかしたか らもうだめ、というものでもない。子どもが一番学ぶのは夫婦の人間関係です。なんて、かくいう私も、そうはうまく子どもに見せられなかったんですけど。 (笑い)

きょうはありがとうございました。

いつでも元気 2004.9 No.155

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