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2017年9月19日

Borders 時々透明 多民族国家で生まれて (12)におい

 秋は深まった。中学校までは畑と落葉した林の間に挟まれた小川沿いを自転車で通勤していた。30分ほどの距離だ。露が降りる朝、大きな帽子を被った農家のお年寄りたちが畑を片付けたり、刈り残しを燃やしていた。くすぶった煙が漂い、その香りを嗅ぎながら僕はゆっくりと学校へ向かった。夕暮れの帰り道には、熟した柿が畑の周りに小さな炎のように光っていた。時間がある時は、自転車を川沿いに停めてひんやりとした林を散歩した。風が吹くと竹がたてる固い音に包まれ、1日を振り返りながら心を落ち着けた。このような穏やかなひと時が積もるにつれて、三重での暮らしに慣れていった。
 主に中学校で英語を教えていたが、月曜日は桑名の小学校を回ってアメリカと英語のお話をした。僕が現れると、子どもたちは興奮したり叫んだり、僕によじ登ろうとした。レッスンの最後は質問時間。低学年の子どもほど素直に尋ねる。「外国に虫はいくついるの?」や「外国では何を食べるの?」などなど。小さい子から見ると、世界は「日本」と「外国」の2つなのだろう。「外国」には、僕はいつも次のように答えた。「外国ってどこの国? 僕はアメリカから来たからアメリカについて話そうか? それとも、韓国の虫について話そうか?」。子どもたちは少し考えて「アメリカ」と答えるのが普通だった。
 ある月曜日、小学校から帰ろうとしていたら、廊下で幼稚園の男の子が2人、「アーロン先生! アーロン先生!」と叫んで追いかけてきた。僕は立ち止まってしゃがみ、「何?」と聞いてみた。2人とも黙って微笑みながら僕を見た。まるで犬が車を追いかけ、やっと捕まえたがその後どうしたらいいのかさっぱり分からないように。やがて1人が「なぜ韓国人は臭いの?」と聞いた。「韓国人に会ったことあるの?」と聞き返すと2人とも頭を横に振った。「じゃ、どうして韓国人が臭いと思うの?」とさらに聞いた。1人は「だって、お家でそういうんだもん」。そして笑顔で2人は逃げた。
 ネブラスカを思い出した。対象のグループや偏見は違うが、固定概念が根付く仕組みは同じだろう。子どもは大人の話をよく聞いているから、差別的な考えはまるで味噌汁を飲むように体に入って、彼らの一部となる。
 帰り道、子どもたちに何と言えばよかったか考えていた。もし彼らの親に会ったら、何と言えばいいだろうか。でも、まずは僕の中途半端な日本語を直さないといけない。一刻も早く。


文 ヘイムス・アーロン 東京在住のユダヤ系アメリカ人。セントルイス・ワシントン大学院生、専門は人類学。1977年生まれ、ネブラスカ州育ち

(民医連新聞 第1652号 2017年9月18日)

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