いつでも元気

2005年1月1日

特集1 座談会 国境こえて語ろう 憲法 9条は世界の選択 澤地久枝さんを囲んで 平和と緑の地球を次の世代へ

終戦から満六〇年を迎える年の新年です。憲法九条は、ほんとに古くなったのか? 「九条の会」よびかけ人の澤地久枝さんを囲んで、全日本民医連会長の肥田さんと、若い世代から原田雄介さん、松尾春菜さんが語り合いました。

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肥田 泰さん
外科医。全日本民主医療機関連合会会長。
1944年生まれ

肥田 若いお二人は、太平洋戦争中ミッドウェー海戦で戦死した方とその家族について澤地さんが書かれた『滄海よ眠れ』を読んだんですね。どう感じましたか?
松尾 「ラブレター」という章、胸がきゅっと痛くなりました。軍隊にいった私より若い方と、残された奥さん、母親との手紙のやりとり。日本兵もアメリカ兵も、休みを工面して会いにいく。そういう葛藤の中で命を落としていく。なんで戦争なんかするんだろうと思いました。
原田 ぼくは戦争というものがわからなくて。ノンフィクションなのに、どこかフィクションの感じがしてしまって。

触手をのばしあい

澤地 お二人は私の孫の世代ね。断絶はあるから、前の世代のことがわからないのは当然です。でも、おたがいがアメーバみたいに触手をのばしてつながることが大事ですよ。とくにおとなの方がつながる努力をしなければいけないと思う。
肥田 民医連の五〇周年企画の一環で、青年を中心に中国・韓国・ベトナムへ「平和と医療を考える ツアー」を行ない、私も中国へいきました(52ページ参照)。中国人を細菌兵器の人体実験などで殺した731部隊の跡地も見学しましたが、私は医者ですか ら、自分がここに送られ、実験を強要されたら「私はできない」といえただろうかと考えさせられました。
 戦争について学んできたつもりでいましたが、学生時代には、日本の加害の歴史はほとんど教えられていないんですね。若い人たちにどう伝えていけばいいかという思いを強くしました。

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澤地久枝さん
作家。憲法改悪に反対する「九条の会」よびかけ人の1人。1930年生ま れ。著書に『妻たちの二・二六事件』『火はわが胸中にあり』(日本ノンフィクション賞)『昭和史のおんな』(文藝春秋読者賞)『滄海よ眠れ』『記録・ミッ ドウェー海戦』(菊池寛賞)『私のかかげる小さな旗』など多数

澤地 私は敗戦のとき一四歳。満州(いまの中国東北部。日本がかいらい国家をつくり植民地支 配をしていた)の開拓団に学徒動員されましたが、直接戦闘は体験していません。ただ軍国教育にみごとに染められた軍国少女でした。私がしたことは、戦争だ からおなか一杯食べてはいけないということ。特攻隊の人たちが死ぬなら自分も死ななければ申し訳ないと思っていました。「鬼畜米英」ともいいました。
 戦争が終わって、自分の無知が許せなかったですね。日記をみると、一八歳、一九歳ころから戦争反対の気持ちが強くあります。だけど、学校ではそんなこと は教えないからいっぱい本を読もうとしました。満州のことも開拓団のことも知りたいと勉強する女の子になったの。
 私は出版社の経理事務をしながら夜の学校へいって、編集者を九年。だんだん昭和という時代に関わる仕事をするようになりました。えらい人はどうでもい い、なんでもない人、歴史が書かないことをやろうと思ったんです。気がついたら、テーマはそのときどきで違っても、私の仕事はずっとつながっていました ね。
肥田 「九条の会」もそのつながりですね。
澤地 もし日本が憲法をちゃんと守っていたら、恋愛小説か何か書いてたかもしれない(笑い)。でも戦争が終わったとたんから、右へ行こうと思った人たちがいたわけ。はじめは少数だったけど、だんだん増えて声高になってきたでしょう。
肥田 日本国民は第二次世界大戦で、原爆や沖縄戦など被害者の側面と、東南アジアへの侵略によっ て二千万人の人を殺害した加害者の側面の両方を体験してきました。この苦しい体験から、戦争の被害者にも加害者にもなってはならないと、戦争放棄の九条を 大事にしてきたわけです。しかしいま、日の丸・君が代を学校で強制するなど、再び戦争する国への地ならしが始まっている危険を感じます。
澤地 昔は、女の人は選挙権がなかったし、天皇絶対の憲法下で、国民が人権とか戦争反対というと 捕まる世の中だった。だから私たちは犠牲者だという余地がありました。こんどは、「いやだ」といえる道があるときに自分で選ぶわけだから、「被害者だ」と はもういえない。このことをぜひ、わかってほしいの。

恥や痛みを正直に

原田 ぼくと同世代の若者は、選挙にいかないですね。いかない人は「いっても変わらない」というし、いったとしても親のいう人に入れるという人がいる。
松尾 政治は国が上のほうで決めることだと思っていて、自分たちの手で変えられると思っていないんですね。だから投票という行動にならない。
澤地 そこを変えないとね。もっとも消極的な政治参加なのよ、選挙は。
肥田 自分の意思を表明する場として選挙を活用してこなかったことが、投票率の低さに現れています。今こそ「この国の未来は一人ひとりの意志で決めるんだ」という決意を示すときですね。
松尾 憲法も、教育基本法も変えられようとしていて、教科書自体がまちがった歪んだ歴史を教えている。こわいなと思います。教育が押えられてしまったら、また軍国少女や少年がつくられますね。
澤地 若い人は、よその国の同じ世代の人と、直接コミュニケーションをとるといいと思います。自 分の家族のなかで戦争で死んだ人、どこでどう死んだということを、ひいじいさん、ひいばあさんの戦争体験までよく調べてね。もしかしたら中国へいって中国 人の首をはねた人だっているかもしれない。つらいけどそれを調べて、中国や朝鮮の若い人と話す機会をいっぱいもつといいと思う。そういう恥や痛みを正直に 話し合っていかないと、本物にならないと思うの。
肥田 われわれが若いころと違って、いまは自由に海外へいけるから、いろんな機会に世界の若者と、戦争をやめようという交流をしてほしいですね。
澤地 あなたたちは幸せな時代にいるのよ。気の毒な世代でもあるけどね。戦争にいくのはあなたた ちだから。小泉さんは二〇〇五年一一月までに憲法を変える案をつくるといっている。自衛隊は戦力を行使する集団に変わりますよ。どうやってそれをくい止め るか、ものすごく大変な課題に私たちは直面しているのよ。
 だけど、そうなるといよいよ、九条という原点に戻る以外に日本の選択はない。日本だけじゃないわね。世界中が殺しあう悲しみから抜け出すのに、日本の憲 法九条は世界の選択でもあるんです。
 世界の民衆と話してごらんなさい。ジョン・レノンの「イマジン」はみんなわかる。おとぎ話みたいだと笑う人もいるかもしれないけど、行動すれば空想も現 実になるのよ。私は理想や夢をもつ勇気が必要だと思っているの。理想もなくただ生きてるだけなら、ブタにも劣るわね。

理想をもつ勇気を――行動すれば夢は現実になる

若者たちでルールを

原田 ぼくは原水禁世界大会にいくまで戦争や憲法九条について、深く考えてなかった。澤地さ んが軍国少女だったと聞いて、ほんとうに歴史の真実を知らなくてはいけないと思います。中国でのサッカー試合を友だちとテレビで見ていたら、中国の人がな ぜブーイングをするのか友だちはぜんぜんわからないんですよ。
松尾 従軍慰安婦のことを書いた本を読んで衝撃を受けたんです。テレビも教科書も、私たちが考えるようにしてくれないですね。テレビはもっと情報を出してほしい。判断は私たちがするから。
肥田 必要な情報を集めて自分の頭で考えるという姿勢をつくらないとね。ITもせっかく恵まれた条件があるのに、メールのやりとりに終わり、人生にとって何が一番重要かを確立する手段として使い切れていないと思いますね。
澤地 お金に支配される世の中になっていることがすごく不幸ね。いま「ウサギ追いしかの山」なん てないじゃないの。クマがたくさん人里に出てきたけど、子熊を撃ち殺しておなかを割いたら空っぽだったという。自然が人間に報復しているわけです。C・W ニコルさんが私財を投じて森をつくっていますね。「外人のくせに」といわれるのが辛くて日本国籍をとった。私はニコルさんに恥ずかしいです。イギリス人が 日本の美しい自然を守っているのに、日本人は何をしているのか。
 戦後も六〇年。私は一生懸命、少しでも日本をいい国にして次世代に渡したいと思って生きてきましたが、このままでは渡せない。国にすごい借金もある。九 条さえ揺らいでいる。自然は破壊されている。未来世代にすまない気持ちです。
肥田 若い人たちを見ていると、お金だけが価値じゃないという機運もでてきてるでしょう。若い人たちで新しいルールをつくりあげてくれればと願います。きみたちはたくさん時間があるんだから。

医療人として

肥田 憲法について医療人として思うのは、一つは、医療・福祉といっても戦争という状況下で は、絵空事になってしまいます。だから平和はなくてはならないもので、九条は絶対です。もう一つ大切なのは二五条。人が人間らしく生きていく権利ですね。 生きる権利を保障させるたたかいは平和につながります。
澤地 私は最初の心臓手術から四六年たちます。三回目の手術で人工弁に置き換え、昨年七月にペースメーカーを入れました。もし私が発展途上国に生まれていたら、とっくに死んでいます。
 アフガニスタンで活動する医者の中村哲先生は井戸を二千掘ったんですね。その気持ちはよくわかる。簡単な病気で赤ちゃんが死んでいく。水が悪いからで す。あの人は一生懸命井戸を掘って白髪になった。本来の医療行為とは違うけど、人の命を救おうと思ったらああなるのよ。医療の原点ですね。
 日本は軍事費でアメリカを応援するんではなくて、こういうことにお金を出したらいいんです。「われわれは丸腰です、戦争手段は封印しました。軍隊はもた ない」ということは、世界に通用します。

国境をこえて

澤地 第一次世界大戦のとき、休戦の一週間前に戦死したイギリスの詩人でウィルフレッド・ オーウェンという人が書いた「ストレンジ・ミーティング(奇妙なめぐりあい)」という詩があります。戦場で殺された相手とあの世で会うの。「僕が、君が殺 したあの敵だよ」というところから始まって、最後は「さあ、いっしょに眠ろう」というんです。
 彼は、詩集の序文に「私の願いは戦争の悲惨の訴え。だが自分の世代には間に合わない。次の世代のために」と書いた。詩集は死後に出たんです。彼のあと、 何世代の人たちが同じように殺しあいをしてきたかということを私は考えたい。
 この百年間、戦争がゼロになった日はたぶんないけれど、世界中で日本だけが初めて軍事力をもたない、戦争という手段を捨てた。そのことを大事にしたいと 思う。日本人だけに戦争被害があるのじゃない、世界中のたくさんの流血と悲しみ、そのうえに日本の憲法は生まれたんだから、粗末にしてはいけない。
松尾 澤地さんは、すごく若々しくて見習いたいと思うのですが、そのパワーはどこから出るんですか。
澤地 力はないのよ。人生の逆転がありましたね。一番大きなきっかけは「きけわだつみのこえ」と いうモノクロの映画です。見たのは一九歳くらい。ドラマだけど、そこで初めて戦場で人が死ぬところを見たわけ。学徒出陣でいった人たちです。彼らは死にた くない。もっと勉強したい。大きなショックでしたね。私はつきものが落ちたような気がした。
原田 ぼくも、つきものが落ちるような出会いがあったらいいなと思います。
澤地 これからよ。アメリカに行ったときはアルメニアからきたおばあちゃんと片言英語で話し合っ てね、ふたりで「通じた」と喜んだりした。楽しいわよ。どこへいっても、向こうの人も、知り合いになりたがってるの。みんな、国境をこえて出ていってくだ さい。人為的な線は地図の上だけで、ほんとはないんです。
肥田 明日からのエネルギーになるお話しをたくさん聞かせていただきました。ことしは憲法も社会保障も正念場です。地域で、職場で、元気にがんばっていきましょう。
写真・酒井猛

いつでも元気 2005.1 No.159

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