いつでも元気

2005年3月1日

水俣病は終わっていない

水俣病の病像を確立し、患者救済に尽くした民医連の医療活動

あらためて問われる国と企業の責任

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毎日のように海で泳ぎ、魚を食べてきた。今度こそ認定してほしい」と語る佐々木さん

 昨年一〇月一五日の水俣病関西訴訟最高裁判決は、国や県の責任を認め、行政から棄却された人の一部を「メチル水銀中毒」と認定しました。このため、新た に認定申請をする人が熊本や鹿児島で続出しています。
 一九九六年の和解で一万人を超える被害者が救済されましたが、あきらめていた患者も多かったのです。被害者たちの真の救済を求めて、いま新たな活動が始 まろうとしています。

「本当のこと」を知りたいと

 水俣の市街地から車で約三〇分。不知火海を左手に見ながら、曲折する海岸沿いの道を走った漁村に佐々木満雄さん(65)の家はあります。この地で漁師の家に生まれた佐々木さんは、小さいころから毎日のように海で泳ぎ、「魚を食べること」で育ってきました。
 水俣病は、佐々木さんの家に暗い影を落としました。第一次訴訟で原告が勝訴して間もない昭和四〇年代の後半、両親、兄、そして妹が相次いで認定されま す。なかでも佐々木さんの五歳下の妹・つた子さんは幼いころから寝たきりで、七四年に二九歳の若さで亡くなりました。掘り起こし検診によって見つけられ、 認定された患者でした。
 一見すると健康そうな佐々木さんも、茶碗を落とす、歩いていてつまずく、手足に力が入らないなどの症状があります。手足のしびれは、すでに二五歳のころ からありました。ところが、一〇年前に申請したときには、「二三歳から約一〇年間大阪に転出していた」という理由で棄却されてしまいました。
 「納得できんかった。認定された親兄弟と、同じものを食べてきたんですもんね」
 あきらめかけていた佐々木さんを再び立ち上がらせたのは、昨年一〇月の水俣病関西訴訟最高裁判決でした。いまなら、自分も認定されるのではないか。佐々 木さんは希望をいだき、水俣協立病院の高岡滋医師(神経内科リハビリテーション協立クリニック所長)をたずねました。

申請希望者急増のなかで

 昨年一二月、水俣で百人近くが集まり、NPOみなまた主催で「水俣病」の学習会が開かれました。壇上に立ったのは、三〇年以上前から熊本民医連で、水俣病患者の診察と救済に奔走してきた藤野糺、板井八重子両医師。それに、いまも日々、患者と接している高岡医師です。
 この会で高岡医師は、一一月中に診断した水俣病患者の報告をしました。最高裁判決以降、熊本や鹿児島では二カ月ほどの間に三百人近くまで申請者が急増。 高岡医師自身も、二〇数人の診断書を書いていました。「一一月中に当院を受診し、精査して診断書を書いた方々のうち、許可を得られた一一名について背景や 症状をまとめてみました」
 報告された症状は、以下のようになっていました。「感覚障害=全員に認めた」「求心性視野狭窄=有五名、無四名、不明二名」「上肢失調=有六名、無五 名」「下肢失調=有八名、疑い一名、無二名」…。多くの人が、水俣病に特徴的な症状をあわせもっています。
 「国の基準でみても、少なくとも五、六名は認定されていなければならない。救済されるべき患者に手が届いていないことを、私たちも深刻に受け止めるべきだと思いました」
 一度は棄却された佐々木さんも、高岡医師の診断では「四肢末梢に強い全身性感覚障害と、運動失調が明らか」だといいます。多くの患者にとって「水俣病は終わっていない」のです。

福岡高裁が診断基準を確定

 一九五六年に幼い姉妹の発症から「公式確認」された水俣病は、六〇年代にかけて急性劇症患者や胎児性患者 など、悲惨な被害を出す未曾有の公害事件となりました。しかも、原因が「有機水銀」と特定された後も、加害企業であるチッソは廃水を流し続け、国も効果的 な手段をとらず、被害は不知火海沿岸数万人の住民に及んでいるといわれています。
 こうした被害拡大のなかで、国は、「いくつかの症状の組み合わせがなければ水俣病と認めない」という厳しい認定基準を七七年に策定し、患者を切り捨ててきました。
 これに対し被害者は、熊本だけでなく東京、京都、大阪などで提訴。八五年の水俣病第二次訴訟福岡高裁判決は、「汚染魚を多食した事実と、四肢末梢性感覚 障害があれば水俣病」という病像(診断基準)を採用し、確定しました。これが、後の政府解決策でも基準となって、一万人を超える水俣病患者を救済したので す。
 この病像を確立したのが、七〇年代はじめから現地に根づき、チッソ水俣工場の門前に診療所を構えて、一万人を超える患者を診察してきた藤野医師を先頭とする民医連の医療活動でした。
 水俣病訴訟弁護団事務局長の板井優弁護士は、関西訴訟判決を受けてこう語ります。
 「水俣病とは何かという判断は、すでに福岡高裁で出され確定しています。今回の関西訴訟最高裁判決も、この範囲内のものです。ただ、これによって認定申 請者が急増している事態を考えれば、国には認定基準を見直し、特別立法も視野に入れた抜本的な対策が求められてくるのではないでしょうか」

隠れた被害者救済にむけて

 水俣病の被害者で結成した全国連(当時)は、「すべての患者に生きているうちの救済を」という立場から、 九六年に国との和解を選択しました。その結果、一万一〇〇〇人以上の患者が救済されました。そのうちの二五〇〇人以上がすでに亡くなっている現実を考えれ ば、和解は正しい選択だったといえるでしょう。
 しかし、「それでもなお、手の届かない被害者がいる」ことと、全国連との和解はしたが、「水俣病認定基準を一貫して変えなかった国の責任」がいま、再び鮮明になっているのです。
 荒川速男さん(76)は、水俣病の原因企業であるチッソで四〇年間働いていました。在職中から手足がふるえ、感覚障害も自認していました。けれども、何 十年間も認定申請の仕方を知らず、協立病院にきて初めて教えられ、ようやく昨年六月になって申請しました。
 「チッソが悪かですよ。水銀ばタレ流してですね。国も県も、企業優先でしたもんね」
 関西訴訟最高裁判決後に申請を求め、水俣協立病院で認定申請に必要な診断書を発行するための診察を待つ人は現在すでに百人ほどになっています。救済され るべき被害者は、増え続けています。
 熊本県は昨年一一月、▽八代海沿岸約四七万人(鹿児島含む)の健康調査を行なう、▽福岡高裁で確定した認定基準をもとに約三万四千人(同)に療養費を支 給する、などを柱とした対策を、国とともに実施する案を出しましたが、国はいまだに明確な方針を出していません。
 こうした事態を受け熊本民医連では全日本民医連と協力し、今後、地域に出向いての検診活動など、体制強化をめざしていこうとしています。

日本の認定基準がカナダでも患者を切り捨て

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カナダでオジブワ族の診察をする藤野医師(手前左)、原田教授(後中央)=マクドナルドさん撮影

 カナダの中央部よりやや東のオンタリオ州を流れるワビグン川、イングリッシュ川両水系で水銀汚染が明らかになったのは、カナダ政府の年表で一九六九年と されています。原因は、上流にあった多国籍企業の製紙工場から出される排水が確実視されています。
 この流域には、オジブワ族という先住民の居留地があり、漁獲などを生計としていたため水俣病の患者が高率で発生していました。カナダ政府は七〇年に、売 るための漁獲を禁止。生活保護を実施しましたが、十分な対策ではなかったため、先住民は魚を食べ続けざるをえず、多くの人が水俣病に罹患していきました。
 昨年一二月の水俣病学習会では、宮城県立宮城大学特任助教授で、先住民の救済活動を続けるアン・マクドナルドさんが招かれ、被害の実態を報告しました。

崩壊した先住民の共同体社会

 「先住民のコミュニティーは水俣病で崩壊しました。しかし、白人社会から注目されず、多くの患者が医療からも救済からも見放されたまま、貧困のなかに取り残されています」
 日本の厚労省の厳しい認定基準をもとにしていたため、カナダ政府も比較的軽症の患者を「水俣病」と認めていません。
 水俣協立病院のリハビリ施設を見学したマクドナルドさんは、「治療が受けられ、献身的な医者をもつ日本の患者がうらやましい」といって涙しました。
 藤野医師は民医連退職後もカナダを訪れ、熊本学園大学の原田正純教授らとともに患者を診察する活動を続けています。
 魚介類の微量汚染をはじめ、水銀汚染は地球規模で深刻になっています。「水俣病」の惨禍を後世に残さないため、世界の人びとが手を結んで原因と責任の追 及のため立ちあがろうとしています。

いつでも元気 2005.3 No.161

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