いつでも元気

2005年4月1日

シリーズ被爆60年 “被爆者の苦しみ知って” 医学生たちが支援の輪

とことん“いのち”にこだわって

 国の非情な原爆被爆者対策を告発してたたかっている「原爆症認定集団訴訟」―これを支援する医療系学生た ちがいます。二〇〇三年秋に結成された「メディカルおりづるネット」(通称メディづるネット)。キャッチフレーズは蕫いのちにこだわる﨟。会を立ち上げた 平山知香子さん(東京女子医大六年生)に、支援への思いや活動を聞きました。

メディカルおりづるネット
平山知香子さんに聞く

新聞記事がきっかけで

 アメリカのイラク攻撃や自衛隊の海外派兵に心を痛めていた平山さんは、平和集会に参加したり署名を訴えた りしてきました。しかし、周りの学生たちは、「医療のことを学んでればいいんじゃない。なぜ平和のことを学ばねばならないの?」という雰囲気。割り切れな い気持ちを抱いていた時、自身も被爆者で、全日本民医連顧問の肥田舜太郎医師が医学生にこう語るのを聞いたのです。

 「戦争のこと政治のこと社会のこと、それに関わりたくない人は、医者になってはいけません。医者たるものは、人の命にとことんこだわりなさい」―「そうだ。医学生ならば戦争のない平和な社会をめざすことから、絶対逃れてはならない」

 一昨年七月のこと、一つの新聞記事が目に止まります。東京で行なわれている原爆症認定集団訴訟の第一回弁 論が始まるとの報道。「戦後六〇年近くたつのに、まだ原爆症で苦しむ人たちがいるなんて…」。人の命が粗末に扱われることに胸が痛み、裁判後の報告集会に かけつけます。被爆者の過酷な実情を聞くにつれ「命を削ってたたかいに立ち上がった被爆者の願いを、もっと勉強して、もっと知りたい」との気持ちにから れ、「私も聞く立場から知らせる立場になろう」と決意します。

 翌月、信州大学で開かれた全国医学生ゼミナールの分科会では、長野県原水爆被災者の会会長の前座良明さんに被爆体験を話してもらい、自らは原爆症認定訴訟について発表します。

 その後、友人を誘い東友会(東京都原爆被害者団体協議会)の人から被爆者運動について聞き、学習会を重ね、医学生としてできる支援をしようと「メディカルおりづるネット」を結成しました。

メールで情報交換して

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盛り上がった渋谷駅頭でのクリスマス行動(03年12月24日)

 年末には、「クリスマス行動」と銘打ってサンタの衣装で宣伝。手作りのカードにメッセージを書いてもらっ て若い世代の声を厚労省に届け、夜は渋谷駅前で訴えました。前宣伝したので、「自分たちもやれることなら」と加わってきた青年もいます。日常的には、数人 で作ったニュースを、民医連の「つどい」で知りあった医学生や友人たち八〇人ほどにパソコンでメール送信、おしゃべりをして情報を交換し合っています。一 〇人前後で集いを持ったりもしてきました。

 昨年も、東京の被爆者の話を聞きました。やけどをして皮膚が垂れ下がっている手を上げながら寝ていた人々が、翌朝みんなそのままの姿勢で死んでいたこと、アスファルトの道路は溶け死体が丸焦げでごろごろしていたこと…。核兵器の恐ろしさを実感しました。

 「私たちの語り伝え運動で、青年の中で人の命が大事だと思う人が増えていってほしい。そしてまた別の人に 伝えられて、将来、若い人が考える平和の中に核兵器廃絶がすぐ浮かぶようになってほしい。日本が率先して平和を唱えれば、世界も変わる気がしてきました。 そんなふうに希望を持つと、元気がでてきます」と笑顔を見せます。

 昨年の三月三一日、原爆症認定を求めて提訴していた東数男さんが、東京地裁で全面勝利の判決を勝ち取りました。その笑顔の写真を新聞で見て、「やっと救われたんだ」と感激しました。それなのに国は控訴するという。

 「六〇年間苦しんできた人のことを考えたら、絶対あり得ないこと」とすごく悔しくなって、厚労省前で一週 間、青年の平和グループ「ピースバード」と一緒に抗議行動を続けました。「荒馬座の方が太鼓をたたいたり、バンドを通じて平和メッセージを送っている友人 にギター演奏してもらったり、にぎやかにやりました」

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意見陳述にジンときて

 東さんの控訴審が結審した昨年一二月二四日は傍聴席には入れませんでしたが、報告集会でもらった中村尚達 弁護士の意見陳述を読んで圧倒されました。中村弁護士自身も三歳の時、長崎で被爆しています。爆心から約三キロで直爆を受けたお父さんは、一九年前食道が んで死亡されたといいます。

 「厚生労働省のお歴々に声を大にして問いたい。あなた方は一度でも真剣に被爆者の苦痛の叫びを聞いたこと があるのか。理解しようと努力したことがあるのか」「一人の被爆者がいれば、その人の生れ育ってきた人生があり、家族という絆があり、地域社会や職場での 生活や夢や希望があり、人との結びつきがある。原子爆弾はそのような人間としての存在を根こそぎ奪い去り、その人の人生を根底からくつがえした。そのよう な原爆被害の真の実態の理解の上に立たなければ、原爆症認定の問題を語る資格はない」と。その迫力にジンときました。

 「そうだ、人の命が大事だ。この裁判は、日本の被爆者行政のあり方がかかっている。私たちが今やっていることは、今後の社会にすごく重い役割を担っている」―。集会後の有楽町・マリオン前での宣伝にも力が入りました。

東さんの遺志をついで

 一月二九日、東さんは、自分の病を原爆症と認定されないまま、無念の死を迎えました。平山さんは、今改めて決意しています。

 「私は、四月から東京民医連の病院に入職しますが、目の前の患者さんを診ているだけではいけないと実感しています。地域に出かけていって、求められている医療が何か、しっかりわかる医者になりたいと思っています」  太田 候一記者

いつでも元気 2005.4 No.162

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