いつでも元気

2005年5月1日

シリーズ被爆60年 “国には責任をとって欲しい” 原告の証言ビデオつくって支援 千葉・原爆症認定集団訴訟

広島・長崎に原爆が投下されて六〇年経ったいまもなお、国に原爆症と認められず、苦しんでいる人々が全国にいます。日本被団協(原水爆被害者団体協議 会)の呼びかけに応えて、千葉県でも原爆症認定を求める集団訴訟が起こされ、千葉民医連も支援しています。裁判勝利に向けた世論を築こうととりくんでいま す。

原爆が人生を「どん底」に

 「原爆で私の人生はどん底です」と話すのは、田爪スミエさん(67)です。二回原爆症の認定申請を行ない ましたが、却下されました。千葉の集団訴訟で、三人目の原告となることを決意。千葉健生クリニック(千葉市)で二月五日、被爆体験の証言、ビデオ撮影が行 なわれました。証言は訴訟を支援する千葉の会によって他の原告の証言などとともに編集され、デモ・テープとして普及、活用する予定です。
 他の被爆者も見守る中、ソーシャルワーカーの松本若菜さん(30・千葉健生病院)と中村久和子さん(29・船橋二和病院)が聞き手となり質問します。田 爪さんは質問に応えて、度々涙ぐみながらもしっかりと前を向き、辛い体験と、えぐられるような胸の内を明かしました。
 田爪さんは原爆が投下されたときは七歳。爆心地から一・七礰神地点にある家の中でした。腰と足にけがを負います。家族は避難しましたが、離ればなれに。 「妹を探してきて」という母の言葉に、田爪さんは従いました。しかし何十時間もかけ、やっとの思いで妹を連れて戻ったとき、目にしたのは大八車に寝かされ た母の姿でした。「今朝、息を引き取った」と聞かされます。あまりにも衝撃が大きく、今も田爪さんの脳裏からは、母の姿が離れないと訴えます。
 生きるために働かなくてはいけなくなりました。家族は別々の家に預けられ、田爪さんは九歳から働き通し。学校にも行かせてもらえませんでした。「学校に 行けなかったから、普通の会社には入れずに、ずっとパート。力仕事や裏方の仕事ばかり」。とにかく生きるために必死だった、とふり返ります。
 その後、働きながら千葉県に。結婚しましたが、最初に生まれた子どもは一一カ月で亡くなりました。他の子どもも「せがれは年中咳してる。娘もリウマチ。みんな身体が弱い」といいます。

心停止三回、脳梗塞二回

 田爪さんは、二〇代から歯のぐらつきを覚えます。一七~八年前から今日までに、心筋梗塞による心停止を三回経験。「普通の人が、三回も心臓止まるんです か?」。原爆症でなくて何なのかと、訴える声に力が入ります。脳梗塞も二回経験。現在腎臓は左右とも機能障害を起こし、「健康な人の三分の一しか機能して いない」と医師に告げられています。
 「すぐに疲れる。だれよりも早くかぜを引く。かぜを引いたらすぐ四〇度の熱が出る。高熱でけいれんも起きます」。船橋二和病院にも、何度も入退院を繰り返しています。
 椎間板障害による背中の痛みもたいへんひどく、睡眠薬がなければ夜も寝付けません。「がんで亡くなった父も、死ぬ直前まで『背中が痛い、痛い』と言って いました」。背中の痛みは、亡くなった家族にも、生きている兄弟にも、共通した症状だといいます。
 「国には責任をとってほしい。日本が戦争さえ起こしていなければ、自分もこんな身体になっていなかった。親兄弟も生きて、いっしょに暮らすことができ た。この気持ちは、原爆を経験した者にしかわからないと思います」と悔しさをにじませます。
 「戦争がなければ人生変わっていたんじゃないかと?」との問いに、「思います」とはっきり答えました。

原爆訴訟応援団をつくって

 千葉県内には、原爆手帳を持つ人たちが三四六〇人います(二〇〇三年度末)。被爆地から遠く離れた千葉にこれほど多く被爆者がいる背景には、戦中佐倉市 に置かれた、日本陸軍の佐倉連隊の存在があります。佐倉連隊は原村演習場(東広島市にある現在の陸上自衛隊原村演習場)で演習中に原爆が落とされ、命令に より広島市に入市、救援活動にあたりました。軍の命令で被爆者となったのです。千葉民医連も佐倉連隊の入市被爆者のききとりにくわわり、調査しています。
 千葉健生病院健康友の会でも「原爆訴訟応援団」をつくり、裁判を傍聴。職員といっしょにまくはり診療所の玄関前や、駅頭で裁判所宛の公正な審査を求める署名を訴えてがんばっています。
 五歳の時に東京大空襲に遭い、父に背負われて戦火の中を逃げまどった鈴木春夫さんは、「この裁判は人ごとではない、何としても勝ちたい」と意気込みを語ります。

「一人ひとりが幸せでなければ」

 田爪さんの話をきいた中村さんは、「どんな人がたたかっているか、国は何を言っているか、裁判のことを知ってほしい」と。「間違っていることには間違っ ていると言わなければ。一人ひとりが幸せだと思えなければ、その世の中は間違っていると思います」
 同じく松本さんは、被爆者健診などにかかわるなかで、「戦争ってまだ終わっていないんだと実感した」と話します。教育基本法や憲法の「改正」、イラクへ の自衛隊派遣などの動きに、「日本が戦争できるようになっていくのではないかと思うと恐ろしい。気付いた時には手遅れだったということにならないように、 少しでもとりくみを広げていきたい」と抱負を話してくれました。

文・多田 重正記者
写真・酒井 猛

いつでも元気 2005.5 No.163

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