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2018年6月5日

結成65年 民医連のDNA 誰も見捨てない医療 貧困と差別にあえぐ地域で 京都・九条診療所

 全日本民医連は六五年前の六月七日に結成しました。同じ年の一月、貧困と差別にあえいでいた地域で誕生し、常に地域の人たちと向き合い、ともに歩んできた診療所があります。京都・九条診療所を訪ねました。(丸山聡子記者)

■地図に載らない「ゼロ番地」

 京都駅から南に歩いて数分。華やかな京都のイメージとは裏腹な地域に九条診療所はあります。地域の住民の二割が外国人。つい十数年前までバラックが建ち並ぶ「スラム街」でした。今も患者の三割は生活保護、二割は無料低額診療を利用するなど、困窮している人が多く暮らしています。
 診療所から自転車で五分ほどの鴨川と高瀬川に挟まれた細長い一帯。かつては地図に載らない「ゼロ番地」とさげすまれていました。住民の八割は在日コリアン。日本が朝鮮半島を占領していた頃に日本に渡ってきた人たちやその子孫です。戦後、住まいを追い出され、ここにたどり着きました。「不法占拠」を理由に復興から取り残され、一九八〇年代までは電気も水道もありませんでした。
 この地で、「貧しい人たちに医療を届けよう」と、医学生らが医療相談所を作ったのは終戦から三年後の一九四八年。しかし条件が整わず閉鎖。それでも住民たちの医療への要求は高く、五三年に九条診療所は誕生しました。

■一人の人間として向き合う

 所長の山本勇治医師が非常勤として働き始めたのは一九八〇年。当時勤めていた病院や周囲の人たちは「あそこはガラが悪い。腕が落ちる」と猛反対。行くと、朝から深酒をして暴れる人や全身入れ墨だらけの患者、読み書きができず自分の名前すら書けない患者が大勢いることに驚きました。「これまで医師として大事にされていたが、ここでは医師だからと言って話を聞いてくれる訳ではない。でも一度信用してもらえると情が深く、人間としてとことん付き合ってくれた」。
 薬剤師の三浦恭子さんは二〇年以上前から勤務。ケアマネなどとの連携がない中、訪問服薬指導をしてきました。カレンダーを読めない患者さんが服薬できるようにハングルで曜日の書き方を覚え、朝(赤=朝日)、昼(黄=太陽)、夜(青=日没)、寝る前(黒=真夜中)と色分けしました。
 当時、河川敷に建てられたバラックは湿気がひどく、カビが生え、肺炎や喘息などの呼吸器疾患を抱える人が多くいました。事務の徳山眞由美さんは、「半年だけ」との約束で働き始めましたが、気づけば一四年働いています。待合のトイレでワンカップを飲む患者がいたり、「並んでください」と言うと反発されたり。「それまでの常識が通じなかった。意識が変わったのは、地域を回って暮らしぶりを見てから」。患者さんの布団に手をつくとジットリ湿っていました。「こんな暮らしをしているのか」。以来、無理を言ったり暴れたりする患者さんの背景を考えるようになりました。
 二八歳で診療所に来た山本美千江さん(看護師)は、今月定年を迎えます。大変な思いもしましたが、今はこう考えています。「ここに暮らす人は自分ではどうにもならない苦境の中で生きている。手を離したら命は守れない。みんなで守ってつくってきたこの街の歴史を、後輩たちにも伝えたい」。

■苦労した人たちだからこそ

 長年にわたる住民たちの運動で、バラックは公営住宅に建て替えられ、一九九六年から多くの住民が移り住みました。当初の在日一世の多くが亡くなり、二世や一般公募の人も入居しています。京都市から管理・生活支援を委託されているNPO「まめもやし」の村木美都子さんは、在日一世の人たちから多くを学んだと言います。喜怒哀楽が激しく、気に入らないことがあると勝手に退院する人もいました。「並大抵ではない苦労をしたから、最後は好きに生きたいという気持ちもあったでしょう。人が制度に合わせるのではなく、一人ひとりが自由に生きられるような制度こそ必要だと学びました。ここには、医療が必要で一人では生きるのが難しい人が少なくない。それを受け入れたり、ささえている大きな存在の一つが九条診療所」と話します

 NPO京都コリアン生活センターエルファは、生活支援や介護施設など在日コリアンへのさまざまな支援を行い、日常的に九条診療所とも連携しています。
 副理事長の南珣賢(ナンスンヒョン)さんが診療所に信頼を寄せるのは、「ここに暮らす在日の人を知っている。なぜ劣悪な環境で暮らしているのか、なぜ読み書きができないのか。理解し、一人の人間として向き合ってくれるから」と言います。
 南さんの夫の母は在日一世で診療所の患者。「山本先生や診療所の人たちは、母に会うと『ようがんばってきたな』と言ってくれる。日本人からそんなふうに言われることは一度もない人生だったから、どんな薬よりも効くんです」。身寄りのない人も多く、相談事は医療や介護の問題にとどまりません。「九条診療所は『それはうちの仕事じゃない』と言ったりしない。在日のハルモニ(おばあさん)のために走り回る、看護師の山本さんのような日本のおばちゃんを見ると力が湧いてくる」と南さん。

* * *

 「あの頃の診療所は普通の家で、汚かった」。懐かしそう話すのは、澤田千代さん(九七)です。六〇年ほど前にここに引っ越してきた時から、九条診療所の患者です。「九条に住んでいる」と言えば差別され、ケンカや怒鳴り合いも日常茶飯事。「怖いところに来たな」と感じたこともありましたが、地域の繋がりが濃く、情に厚い人たちの中で子どもを育てて来ました。
 娘の辻本つる子さん(七八)も診療所の患者。「先生も看護師さんもどんな話でも聞いてくれる。先生に診てもらったら、それだけで元気になる」と目を細めます。
 所長の山本勇治医師は、戦前の代議士で「治安維持法」に反対し、暗殺された山本宣治の孫。山本宣治の暗殺後、「貧しい人たちの医療機関を作ろう」が合言葉になり、民医連のルーツである無産者診療所が誕生しました。山本医師は言います。「祖父は、お金の有無で命の重さが左右されてはならないと訴えていました。どんな患者さんも見捨てないという診療所のポリシーは祖父の信念とも通ずる。ともに働く仲間たちは私のささえです」

(民医連新聞 第1669号 2018年6月4日)

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