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2018年7月3日

結成65年 民医連のDNA 子どもたちの未来に青空を 大気汚染企業に立ち向かった患者、住民、民医連 岡山・倉敷医療生協 水島協同病院

 一九五五年から始まる高度経済成長期に、各地の工業地帯では石油化学、製鉄などのコンビナートの建設が相次ぎました。工場の立地と操業開始とともに、環境破壊がすすみ、岡山・水島臨海工業地帯では大気汚染公害によるぜんそく患者が増えました。今年で創立六五周年を迎えた倉敷医療生協・水島協同病院を訪ねました。(長野典右記者)

■無差別・平等の医療求める声

 「とても三カ月はもつまい」。水島診療所(水島協同病院の前身)ができた頃、地域ではこうささやかれていました。診察室にあるのは借り物の顕微鏡と、二、三の医療器具、そして初代所長の金高満すゑ(ますえ)医師の聴診器。薬や注射器は理解ある開業医からの寄付での出発でした。
 里見和彦院長は「水島には、戦時中、戦闘機をつくる三菱重工業水島航空機製作所があり、戦後、徴用され帰国の道をたたれた朝鮮人、戦災で家を焼かれ水島にたどりついた人、海外からの引き揚げ者など戦争被害者が多く住んでいました」「国民皆保険制度はなく、医療費は現金で支払う時代。地域の医療要求は大きく、貧困や国籍で差別されない無差別・平等、低額の医療を求める声が大きくなり、一九五三年に水島医療生協・水島診療所が創設されました」と歴史をふりかえります。

■健康調査や大気汚染調査実施

 静かな農・漁村の水島に、五二年、岡山県は、農業県から工業県へと、水島臨海工業地帯造成計画を立てました。六一年には最初の誘致企業として、三菱石油(現JXTGエネルギー)水島製油所が操業開始。六五年には、川崎製鉄(現JFEスチール)が当時、世界最大の溶鉱炉として操業を始めました。港では異臭魚、死魚、市街地でも玉ネギが腐ったような悪臭。農業生産が多かったイグサが赤くなり売れなくなりました。気管支ぜんそくや気管支炎の患者が増え、七一年には、一三歳の女の子が重篤のぜんそく発作で亡くなる痛ましい出来事がありました。
 当時、水島協同病院でケースワーカーとして公害係を担当していた太田映知(てるとも)さん(みずしま財団代表理事)は、「化成水島(現三菱ケミカル)の排ガス燃焼塔からのフレアスタック(余剰ガスを焼却した際に出る炎)から連日連夜、数十メートルの炎があがり、まばゆい光で寝られないという事態に、全戸の住民七〇〇人参加の町民大会を開き、工場に抗議のデモを行いました。水島協同病院の職員も医療班として参加しました」と語ります。その後、当時の水島医療生協は当該地区住民の住民健康調査をはじめ、大気汚染調査、公害患者のつどい、大気汚染と健康をテーマにした学習会を行い、倉敷市公害病友の会の結成につながっていきました。

■主治医意見書が司法に届いた

 里見さんは、一九七九年に入職。「人間の一番の不幸は貧乏と病気。貧乏な人でも分け隔てなく診る医師にならないか」との父親の言葉で医師をめざしました。当時の病棟は、ぜんそくで九年、一一年と長期の入院生活を強いられた患者、外来は発作で受診する患者でひしめきあっていました。
 そして経団連の「公害は終わった」キャンペーンの中、里見さんは水島コンビナート主要企業八社を被告とする、倉敷大気汚染裁判にかかわることになりました。被告企業は最終準備書面を岡山地裁に提出し、この主張を裏づけるために、被告自らが依頼した医学者に「症例検討」を実施させました。そこには「ニセ患者」「甘い」「大げさ」などの記述が。里見さんは「許せない」という思いがこみ上げてきました。
 そこで、二〇回以上の検討会や文献を読みながら、弁護士と共同で「症例検討」に対する主治医意見書を作成しました。「主治医が不在の『症例検討』に的確な診断や治療方針は存在しない。いかに専門家が集まっても効果はない」と被告企業に反論しました。九四年に岡山地裁で勝利、全員公害患者に認定されました。主治医意見書が司法に届いた瞬間でした。九六年に和解しましたが、一三年の歳月を経たたたかいで、患者会の役員で生き残っていたのはわずか一人。「子どもたちの未来に青空を、という思いと行動を心から尊敬しています」と里見さんは語ります。

心が通わない病院は 地域に残れない

■病気を社会的背景でみる

 入職一七年目で、コープリハビリテーション病院に勤務する佐藤雅昭さん(理学療法士)は公害認定患者で、水島協同病院に通院していました。「『朝起きて、天井が見えると生きていることが実感できる』と言った患者の気持ちがとてもよくわかる」と言います。水島協同病院が患者を差別せず、病気や社会背景まで配慮できるのは民医連の息吹が根づいている証。現在、患者が自宅に戻っても安心して生活できる「地域まるごとリハビリテーション」を多職種と協業し、日々実践しています。
 市議、県議を長年勤め、現在は倉敷医療生協監事の岡田信之さんは「かつて水島協同病院を『特殊病院』と呼び、労働者が労災で当院に救急搬送された時、会社の上司が転院を強要する、ということもありました。しかし企業がつくった病院は、今や閉院や譲渡でその姿はありません」「心が通わない病院は地域に残れない」と実感を込めて語ります。

■健康づくりをSDHの視点で

 八八年に健康被害補償法地域指定解除で、認定患者は約三八〇〇人から一〇〇〇人近くに減少し、地域の高齢化もすすんでいます。また同院は地域の多くの救急患者を受け入れながらの診療。医師の確保と養成は喫緊の課題です。
 地域の人の困りごとを相談できる病院、健康づくりをSDHの視点でとりくむ病院になるため、「この地域に起きた公害という事実と、それに立ち向かった患者、住民、民医連の諸先輩方のたたかいを記憶にとどめ、患者に向き合い、地域に向き合う、これが私たちの社会的使命」と里見さんは語りました。

(民医連新聞 第1671号 2018年7月2日)

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