いつでも元気

2005年11月1日

特集1 戦後60年 被害はいまも… 旧日本軍の遺棄毒ガスで/裁判に立ち上がった中国残留孤児

少女の夢も奪われた
民医連の病院で検診

 「お医者さんになりたかったの。でも、普通の勉強もできない。前の日に習ったこともあくる日には忘れてしまう…」。二年前の八月、旧日本軍が中国に遺棄した毒ガスで被害を受けた高明ちゃん(9)は、悲しそうな視線を返してきた。

 二〇〇三年八月四日、中国黒龍江省チチハル市の建設現場から五本のドラム缶が掘り出された。中には、旧日本軍が秘密裏に製造し、敗戦時に遺棄してきた毒ガス液イペリットが詰まっていた(注)。

(注)日本軍は国際条約違反の毒ガス兵器を河川や沼、地中に隠して帰国。遺棄した毒ガス兵器は推定 70万~200万発といわれる。そのために戦後、2000人以上の中国人が農作業や工事中に被害にあい、現在もその後遺症に苦しんでいる。国内でも02年 9月、神奈川県寒川町の国道工事中イペリット入りビール瓶10数本が発見され作業員11人が被災。03年3月には茨城県神栖町で井戸水からヒ素が検出さ れ、住民に健康障害が。

 そんな危険なものとは知らず、ドラム缶は廃品回収所へ運ばれ、解体された。汚染された周囲の土も、整地用に運ばれた。このため作業員だけでなく、土で遊んだ子どもたちにも被害が広がった。四四人が傷害を負い、うち一人は死亡した。
 二年が経過した今も、被害者は、健康障害と将来の不安に苦しんでいる。日本の心ある弁護士が「チチハル遺棄毒ガス被害者弁護団」を結成し、中国の弁護士 と共同で現地調査、聞き取り調査をおこなってきた。
 この八月、被害者六人(成人男性三人、少女三人、ほかに母親二人)を日本に招き、八月五日、日本政府に真の被害救済を要請。あわせて、東京民医連の協力 を得て被害者の健康診断を実施した。六日には、芝病院で胸部CT・心電図・呼吸機能検査、代々木病院で眼科・皮膚科検査がおこなわれた。血液・喀痰などの 検体検査は、病体生理研究所が無料で実施した。被害者の話を聞いた。

素手でドラム缶を持った

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ポケットに入れたお札が汚染していて太ももにも水疱ができた丁樹文さんと、深くただれた丁さんの足の甲

 丁樹文さん(26)は、現場で掘り出されたドラム缶五本を廃品回収業者に売りに行くため、三輪車に素手で 缶を運び上げた。液体が流れ出して手足に触れた。夜、顔が赤く腫れ上がり、涙が止まらず、目が開けられなくなった。翌朝病院に行き、即入院。手、足、股、 脇の下、陰のうが腫れ上がり、水疱は直径一二~一五礼にもなった。ぬれた手でお札をやり取りし、ポケットに入れたため、太ももにも被害が及んだ。
 イペリットは、目や毛穴、呼吸器から体内に簡単に侵入し、全身の細胞を急速に破壊する。しかも特効薬がなく、治療は対症療法に頼らざるをえない。被害者 は、まず猛烈な皮膚の痛み・かゆみ、目の痛み、吐き気に襲われ、数時間後には、毒ガスに接触した皮膚は水疱を形成し、その後ただれてくる。とりわけ、汗を かきやすい脇や陰のうなどの下半身部分は毒ガスが浸透しやすくダメージが大きい。
 丁さんも、一日四~五回、水疱をむいてうみを出し、その後、びらんした肉を除き、薬を塗ったという。麻酔を使わないので、毎回、毎回すごい痛みで、「死んだ方がいいと思った」。
 今でも就寝時、息苦しく、寝ついて一時間もすると、針で刺されたような痛みに襲われる。毎朝、咳が出て黒いタンが出る。目やにもひどい。目は乾燥しやす く、痛み、かゆみがある。皮膚は、水疱ができた部分の痛みやかゆみがすごい。
 免疫力が落ち、月二回ぐらい風邪を引き、一~二回は下痢をする。ちょっとしたけがも治りにくい。外見は元気そうに見えるが体力がなく、すぐ頭が痛くなる。
 これは、ほとんどの被害者が、現在訴えている症状である。丁さんはこういう。
 「大型車特種免許取得中だったのに、働けなくなった。妻や家族(父母と二歳の娘)への関心や感情が薄くなってしまった。妻や家族を満足させることができ ないと感じて、自分の方から身を引きたくなっているためかもしれない」
 廃品回収販売業をしていた王成さん(23)は、運ばれてきたドラム缶を解体して被害にあった。「ベッドの壁に頭をぶつけて痛みに耐えた」という。〇三年 一〇月に一回目の皮膚移植手術。左大腿部から皮膚を取り、右足の甲からすねにかけて移植した。二回目は、右大腿から取った皮膚を陰のうに移植した。
 陳栄喜さん(34)は汚染土を庭の整地に使い、娘の紫薇ちゃん(13)も被害を受けた。紫薇ちゃんは検診の合間も「疲れた」と長いすに横になっていた。

ランナーを夢みていた

 馮佳縁ちゃん(12)は、校庭にあった土の山で泥人形などを作って遊び、被害にあった。「一〇〇神のラン ナーになりたかった」が、今は、少し走っただけで、すぐ息切れするし、寒いと針を刺さしたような痛みが出て、勉強も運動もできなくなる。学校から帰った ら、足が肉まんじゅうのように腫れ上がっていた時もある。毎晩、お母さんが足を温めてくれる。
 風邪を引きやすく、月に三、四回は三八度前後の熱が出て、咳き込む。しょっちゅう鼻水が出る。目も痛く、霞がかかったようで、視力は事故前、左右とも 一・二だったのに、今は〇・五ぐらいだ。
 何より集中力がなくなった。国語も算数も九〇点以下になったことはなかったのに、今はよくて八〇点、悪い時は六〇点しかとれない。人と会いたくなくな り、友だちとも遊ぶ気になれないという。
 「病院で年一回の検診を受けて、それ以外は漢方薬で治療しているの。お母さんの月収の半分くらいかかる。日本政府からもらったお金では足りない。日本政 府は被害者に謝ってほしい。元の体に戻してほしい」
 高明ちゃん(9)は今回の被害者で最年少。原因はやはり土だ。友だちの家の前に、湿って軟らかく黒っぽい土が山盛りになっていた。泥団子を作って遊んだ ら、二時間ほどして足や手が痛みだし、一年留年するはめになった。友だちに「感染する」といわれ嫌がられるので、転校した。今も足の痛みが取れず、指が開 かない。気力も落ちたし集中力も落ちた。

被害の補償をしていない

 診察した芝病院の藤井正實院長は「咳や痰などの自覚症状のある方はみな、気管支壁の肥厚が見られました。 とくに佳縁ちゃんは一二歳とは思えないほど粘膜が腫れていました。もちろん喫煙歴もなく、これまでにぜん息にかかったこともないので、ガスの吸入による影 響は否定できないと思われます。日本なら当然、定期受診が必要な症状ですが、医療費が自費だと大変です」と語っていた。
陳栄喜さんは「日本政府に要請書を出したが、被害者に心から謝罪をしてほしい。医療ケア・精神的ケアと生活保障をしてほしい。働くことができないのですか ら。中国にある毒ガスを一日も早く取り除いて、同じ被害が二度と起こらないよう対処してほしい」という。

 山下基之弁護士の話

 チチハル毒ガス被害は、日本政府が「旧日本軍の毒ガスである」と認めたことが、先行している二つの裁判と 違うところです。しかし政府は、被害を補償するのではなく、「遺棄化学兵器処理事業に係る費用」として三億円を支出したに過ぎません。中国政府は約八割 を、直接、被害者に配分しましたが、一時金では不十分です。事故時の入院費用だけで受領金の三分の一近くかかってしまった人もいる。将来の入院費を心配し て、重篤な症状を抱えたままの人も多い。
 被害者の全面的な健康調査を実施しなければ、全容は明らかになりません。医療保障とあわせ生活保障が必要です。外務省を窓口に継続的な協議をしていくと同時に、世論にも訴えていきたい。

文・太田候一記者/写真・会田法行

「チチハル被害者人道支援基金」は
 郵便振替00110│6│760615


戦後60年 被害はいまも・・・

「人間としての暮らしをしたい」

裁判に立ち上がった中国残留孤児

国は何回、孤児を棄てるのか

 「祖国日本で、日本人として人間らしく生きる権利を」と、「中国残留孤児」約六六〇人が、二〇〇二年一二月に国を相手どって東京地裁に提訴。その後、京都、大阪、兵庫など一七地裁、原告数二〇六四人の集団訴訟に発展しています。
 日中戦争前に国策で「満州開拓団」として移住し、日本の敗戦で肉親と死別、離別して中国に取り残された人たち。原告の一人、東京都大田区に住む紺谷康子さん(69)の場合は…。

 一九四五年八月一五日、終戦の日、紺谷さんは九歳でした。父親は三カ月前に軍隊に応召され、母親と幼い三人の妹とともに、ロシア国境に近い琿春の自宅から、延吉という町まで逃げてきたところでした。
 「終戦は、避難所のラジオで知りましたが、誰も何もしてくれない。日本へ帰ることなど、考えられませんでした」

中国人の養父母に育てられ

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話しながらもつい涙ぐむ紺谷康子さん

 水とわずかの食糧しか持たず、避難民でごったがえすなか、三歳の妹が伝染病で亡くなりました。一時、旧満州鉄道職員の空家に住みますが、麻袋にわらを入れて布団がわりにするような生活。
 「冬になると零下二〇度の寒さですが、着るものもありません。手元のわずかなお金で母はお粥を食べさせてくれましたが、それもなくなり、畑に落ちている トウモロコシの落穂を拾ってお湯に入れて食べていました」
 年末、母親が病死。五歳の妹も火傷で亡くなり、紺谷さんと四歳の妹だけが残されました。二人は紆余曲折の末、母と妹を埋葬してくれた日本人を通じて、学 校の教師をしている中国人の家で養われることになったのです。
 幸い紺谷さんは慈愛深い養父母に助けられ、大学まで通うことができました。日本人の子を大切に育てたため、養父母は文化大革命の時に苦労したそうです。
 八一年に訪日調査が始まったとき、紺谷さんは過去の経歴を詳細に記して日本大使館に提出しました。すでに父親は亡くなったと思っていましたが、一年もし ないうちに厚生省から連絡がきました。父親は七五歳で、東京都秋川市の老人ホームに入っていたのです。

年齢や言葉の壁で職がない

 八五年、ようやく一時帰国し、父親と四〇年ぶりに再会。八九年一〇月に中国人の夫と二人の子どもを連れて永住帰国します。しかし、それからが大変でした。
 「帰国者が定着促進センターで日本語と生活習慣を勉強できるのはわずか四カ月だけ。国は生活支度金をくれただけで、職も家も、自分で探さなくてはなりませんでした」
 中国で化学研究所に勤めていた紺谷さんですが、すでに五〇歳になっており希望する職にはつけません。定住後に受けた生活保護も、自立を促され一年で打ち 切りに。掃除のパートを始めましたが、二年で体をこわしできなくなりました。
 比較的日本語が上手だった紺谷さんでさえ、このありさま。多くの人は言葉が壁となって、思うような仕事につけません。日本語のできない夫も慣れない重労 働で、病気がちになってしまいました。
 「日本語がわからない夫は有給休暇の制度も知らされず、会社が倒産したときも失業保険もまともにもらえなかった」
 中国残留孤児は、みな六〇歳を過ぎる年齢となっています。しかし日本で仕事をした期間が短いため、月額二万円程度というわずかな年金しかなく、七割の孤児が生活保護を受けています。
 紺谷さんたちが中国に取り残されたのも、長年帰国できなかったのも、国の政策によるものです。なぜ、このような生活しかできないのか。日本人として、ま ともな暮らしをしたい。その願いが訴訟に結びついたのです。

「戦時死亡宣告」で戸籍抹消

 東京訴訟弁護団に加わる長尾詩子弁護士は、こう語ります。
 「残留孤児は、敗戦時に国に棄てられ、一九五九年には蕫戦時死亡宣告﨟によって、死んだ者として戸籍から抹消されてしまいました。その上、帰国後も、国 の冷たい制度によって棄てられています。
 七二年、日中国交が回復しましたが、訪日調査を始めたのはそれからさらに九年も後。戦後三六年目です。せめて国交回復後、国が早く手を打っていれば、孤 児の方たちももっと若いうちに帰国することができ、生活再建もできたはずです」
 中国人養父母の多くは年老い、亡くなっています。でも、見舞いや墓参りに行こうとすれば、「海外旅行はぜいたく」とされ、その間の生活保護は打ち切られ ます。これが、「人間としてあたりまえの暮らし」といえるのか。
 七月六日、一連の裁判で初めての判決が大阪地裁で出されました。結果は原告側の敗訴。「判決は蕫日本語能力が不十分で、社会生活上、さまざまな場面で不 便をきたしたり、不利益を受け、精神的苦痛を受けた﨟と被害を認定しています。しかし、孤児たちの受けた人権侵害を、蕫不便﨟とか蕫不利益﨟などと表現す るような皮相な判決です。マスコミをあげて批判されましたし、運動も裁判も、まだまだこれからなのです」と長尾弁護士。
 日本語が不自由で自分の体験をうまく伝えられない中国残留孤児の人たちへ、温かい支援をと訴えています。

文・矢吹紀人/写真・会田法行

「中国残留孤児人間回復運動支援基金」は
 東京三菱銀行五反田支店(普)2076999
 または郵便振替00130│0│581422

いつでも元気 2005.11 No.169

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