MIN-IRENトピックス

2018年10月2日

ルポ 手遅れ死亡事例 孤独死の淵からつないだ医療

文・矢吹紀人(ルポライター) 
写真・酒井 猛 

かつては大勢の炭鉱労働者が住んでいた上砂川町の炭鉱住宅

かつては大勢の炭鉱労働者が住んでいた上砂川町の炭鉱住宅

 全日本民医連が2005年から始めた「経済的事由による手遅れ死亡事例調査」。
 毎年、50件を超える死亡事例が集まり記者会見で発表。
 “国民皆保険制度”といわれながら、高騰する保険料や医療費で受診できない患者の実態を告発してきた。
 北海道勤医協上砂川診療所の事例から医療機関の果たす役割を考える。

地元商店の機転

 札幌市から車で1時間あまり、北海道の道央にかつて炭鉱で栄えた上砂川町がある。この町で1949年から診療している勤医協上砂川診療所に、田中正志さん(仮名)の容態が伝わったのは2016年11月。きっかけは、地域の雑貨店店員の中村さんが町の地域包括支援センター(包括)に電話をしたことだった。
 「田中さんが店に来たけど、歩いて帰れないほど弱っている。心配だから、ちょっと見に行ってもらえないですか」。
 60歳代後半の田中さんは、この町で生まれ育った。両親が亡くなり、同居していた妹が病院に長期入院してからは一人暮らしを続けていた。
 相談を受けた包括主任ケアマネジャーの武田さんがすぐに田中さん宅を訪問。家に入ると、田中さんはソファに座ってタバコを吸っていた。部屋の中には、ジュースの空き缶や食べ残したカップラーメンの容器が散乱。トイレに行くにも、壁伝いによろよろとした足つき。食事もきちんと摂れていないようで、体調がかなり悪いのは明らかだった。
 ところが、受診を促しても「大丈夫だから」と応じようとしない。田中さんは数カ月前に受けた町の特定健診で「肺に影があるようだ」と診断されていた。病院の検査を何度も勧められていたが、同じように拒み続けていた。
 武田さんは「体のどこかに痛みがあるわけではないので、まだ深刻な状態ではないと考えていたようです。経済状況も病院に足が向かない理由だったと思います」と推測する。
 田中さんの収入は1カ月6万6000円の国民年金だけで、日々の生活にも苦労していた。包括の職員は粘り強く毎日のように訪問。田中さんの具合は日に日に悪化。とうとうソファから自力で起き上がれなくなった時、ようやく受診を受け入れた。
 「経済的な困難が、受診をためらう理由ではないか」と判断した武田さん。連絡をとったのが、町で唯一、無料低額診療(無低診)を実施している上砂川診療所だった。

地域包括支援センターの職員。右が武田さん

地域包括支援センターの職員。右が武田さん

田中さんの異変を知らせた雑貨店の中村さん

田中さんの異変を知らせた雑貨店の中村さん

無低診で入院

上砂川診療所の田沢裕一事務長

上砂川診療所の田沢裕一事務長

 大正から昭和にかけて炭鉱で繁栄した上砂川町。かつては石炭の運搬用に上砂川駅まで鉄路が延びていた。最盛期の1952年の人口は約3万2000人。しかし87年に炭鉱が閉山、鉄道は廃線になり人口も減少の一途をたどって今では3000人に。高齢化率は49%以上で、同じ北海道の夕張市と並び過疎化が進む。
 町は厳しい財政事情のもとでも、子どもの医療費を高校卒業まで無料化。行政と医療・介護関係者が情報交換を行う地域ケア会議を開くなど、町民の健康管理や介護に力を入れてきた。
 上砂川診療所の田沢裕一事務長は3年前の赴任以来、役場の福祉課や包括と頻繁に情報交換。無低診をアピールし、特定健診受診者の合同カンファレンスを実施するなど密に連絡を取ってきた。田中さんのケースが迅速に無低診に結びついたのも、こうした日ごろのつながりがあったから。
 車いすで診療所に運び込まれた時、田中さんは既に立ち上がれない状態。診察した伊藤義雄所長は即座に病院への緊急入院が必要と診断した。
 しかし、ここでも経済的な問題が。田中さんは入院費の負担が難しいが、無低診を実施する病院が町の近郊にはなかった。
 そこで田沢事務長は、同じ北海道勤医協の中央病院に連絡。入院の要請はすぐに受け入れられたが、中央病院のある札幌市までの距離は80km以上。寝たきり状態の田中さんを、安静に搬送しなければならない。
 急きょ用意された勤医協中央病院の救急車が札幌から迎えに来て、看護師資格を持つ包括の武田さんが同乗。職員の帰宅用に包括の所長が車で伴走するなど、文字通り自治体と勤医協が一体となって動き、ようやく入院することができた。
 診療所から搬出されるとき、田沢事務長は改めて本人に入院の承諾を得た。「無料低額診療という制度があるから、医療費のことは心配しなくていいですよ」。その言葉に田中さんはかすかにうなずき、安堵したような表情を浮かべたという。

貧困と孤独のなかで

 田中さんが一人暮らしをしていた自宅は、上砂川診療所のすぐ近くにある。以前から診療所で高脂血症の治療などを受けていたが、しばらく通っては中断を繰り返していた。
 魚屋だった両親が亡くなってからは店を閉め、妹と二人暮らし。田中さん自身は親戚の会社で働いていたが、人間関係のトラブルがあったのか辞めてしまい無職の期間が長かった。
 入院が決まった後、心配した叔父が診療所を訪ねてきた。叔父の話によると、田中さんは若いころから人付き合いが得意でなく、親戚の人たちともほとんど交流がなかった。生活が苦しくても親戚に頼らず、妹が入院した後は、孤立を深め生活が困難になっていったと思われる。

上砂川駅の名残。今は廃線に

上砂川駅の名残。今は廃線に

医療機関と行政が共同

 中央病院に入院した田中さんの診断は末期の肺がん。以前発症した脳梗塞の後遺症や、認知機能の低下も見られた。病院で田中さんを担当したソーシャルワーカーの水上寿恵さんは、入院後の様子をこう語る。
 「会話がきちんと成り立たないところもありましたが、自宅に戻るのを希望されていました。これ以上の検査や積極的な治療も希望されなかったので、故郷に近くて入院できる勤医協芦別平和診療所(芦別市)への転院を決めました」。
 芦別平和診療所に移った直後、田中さんは車いすで院内を動き回るなど、少し元気を取り戻した。当時の様子を目にした叔父は「この時点になって、正志の笑顔を見られるとは思わなかった」と語った。
 しかし、病状の進行は速かった。芦別平和診療所への転院から1カ月後の昨年1月中旬、田中さんは息を引き取った。芦別平和診療所から上砂川診療所の所長に宛てられた報告書には、こんな言葉が。「安らかな最期でした。叔父様からは『勤医協には本当に良くしていただいた』と感謝の言葉がありました」。
 地元商店の連絡が数日遅れていたら、田中さんは誰にも看取られず、自宅で亡くなっていたかもしれない。ギリギリのタイミングで田中さんを孤独死から医療につなげたのは、わずかに残された地域のつながりと、勤医協と行政との無低診を通じた連携だった。
 田中さんがもっと早く診察を受け入れていたら、お金の心配をしないで医療にかかることができていたら、ここまで病状を悪化させることはなかったかもしれない。
 国の責任でお金の心配なくかかれる医療制度を確立することが必要だ。田中さんの事例は、「憲法25条にもとづく権利としての社会保障」を地域で現実のものとしていく、医療機関と行政の共同の大切さを教えてくれる。

勤医協中央病院と無低診のプレート

勤医協中央病院と無低診のプレート

いつでも元気 2018.10 No.324

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