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2018年10月2日

米兵に母を殺されて

森住卓(写真家)

 沖縄県の翁長雄志知事の死去に伴う知事選が9月30日に行われます。名護市辺野古への米軍新基地建設を許すのかどうかが、知事選の最大の争点です。新基地建設に反対して現地に座り込む人々はどんな思いで参加しているのか?
 米兵に母を殺害された金城政武さんの思いを森住卓さんが伝えます。

 金城さんの両親は1958年、普天間から辺野古に移住して布団店を始めた。金城さんが2歳の時だった。
 母は布団の仕立てを手伝いながら洋裁教室も開く。さらに、働き者の母は家計のためにバーを開いた。辺野古にはすでに米軍基地(キャンプ・シュワブ)があり、夜はそのバーで米兵相手に寸暇も惜しんで働いていた。金城さんは早朝から掃除をする母の姿を見て「ボクがやるからもっと寝てなよ」と声をかける優しい少年だった。
 ベトナム戦争が始まると、辺野古の歓楽街はベトナムに赴く米兵の享楽の場となる。夜の辺野古はネオンが輝き、昼間とは風景が一変した。

突然の別れ

 事件が起きたのはベトナム戦争末期の74年10月、金城さんが高校3年生の時だった。
 アポロという名のバーを経営していた母は、昼間の疲れからかソファーに寄りかかって居眠りをしていた。店のドアを開けて入ってきた米兵が突然、母の背後から襲った。母は動かなくなった。
 金城さんは店の2階でギターを弾いて大好きなフォークソングを歌っていた。弟の知らせで1階に下りると、母が救急車に乗せられるところだった。気が動転して当時の記憶はあまりない。母は3日後、病院で亡くなった。
 事件を起こした米兵は19歳で、金城さんと同世代。金城さんは憎しみと怒りで一杯になった。米兵は裁判にかけられたものの刑期は短く、本国に帰ってしまった。米軍と日本政府からの謝罪は一言もなかった。
 中学、高校で沖縄戦やベトナム戦争の話を先生からよく聞いていた。だから基地には反対していたし、「戦争をやれば人間じゃなくなる。絶対に戦争はダメだ」と教えられていた。「あの時、米兵相手のバーを開くことに強く反対していれば。基地がなければ母は死なずにすんだ」と今も悔やむ。
 母が亡くなって賠償金が出たが、その金を巡って父親や親戚などとの関係も壊されてしまった。

働き者だった金城さんの母親(1970年頃/金城さん提供)

働き者だった金城さんの母親(1970年頃/金城さん提供)

警備会社で運動と対峙

 高校卒業と同時に本土に出た。本土のマスコミが沖縄の基地問題を伝えることは滅多になく、温度差を感じた。就職先の上司から「沖縄の方言でしゃべるな」、アパートの大家からは「沖縄の人?」と冷たい目で見られとても辛かった。金城さんの居場所は本土になかった。
 15年前、帰って来た辺野古では基地建設問題が起きていた。
 当時は食べることに精一杯で、やっと見つけた仕事先が警備会社だった。辺野古漁港で基地建設に反対する人たちの出入りを監視する仕事。警備会社から「この仕事は今後10年はあるからね」と言われた。監視する対象はみな地元の顔見知り、沖縄戦を生き抜いたおじいおばあたちだった。
 勤務時間外に反対派の人たちのところへ差し入れを持って行ったこともある。この人たちと一緒に居たいと思うようになった。葛藤の末、1年で警備会社を辞め、基地反対運動に加わった。

基地がある限り

 金城さんは特別視されるのがいやで、母の事件について口を閉ざしていた。話すようになったのは、2010年の名護市長選挙で稲嶺進さんが初当選した頃からだ。
 16年4月、また金城さんの心をかきむしるような事件がうるま市で起きてしまった。20歳の女性がウオーキング中に米軍属の男に拉致され、殺された。「基地がある限り事件や事故は起こる。2度と起こってほしくない」と語る。
 毎朝、キャンプシュワブゲート前に行って歩道の掃除をしたり、座り込む人たちのトイレや買い物のための車の運転を買って出ている。
 金城さんは言う。「今、自分ができることを常に考えている。縁の下で運動を支えたい。今までたくさんの事件・事故で殺された人たちや、その遺族が声をあげられなかった。無念の気持ちを考えれば、いま頑張らなければと強く思うんです」。

いつでも元気 2018.10 No.324

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