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2018年10月16日

結成65年民医連のDNA 生活と労働の場から水俣病患者に寄り添って 新潟勤労者医療協会

 民医連結成六五年のDNA―。シリーズの六回目は新潟勤労者医療協会(以下、新潟勤医協)です。戦前、最後の無産者医療運動の地となった新潟では、高度経済成長期の四大公害病のひとつ、新潟水俣病で民医連が大きな役割を果たしてきました。新潟勤医協のルーツと、新潟水俣病患者への献身的なとりくみを紹介します。
 
(丸山いぶき記者)

 治安維持法改悪に反対した代議士・山本宣治の暗殺(一九二九年)を契機に「労働者農民の病院をつくれ!」と始まった無産者医療運動は全国に波及しました。新潟では、大正時代の激烈な農民闘争の経験を受け継ぐ農民組合を中心に、三三年に南部郷無産者医療同盟五泉診療所が、翌年に葛塚(くずつか)診療所が誕生しました。
 しかし、日本が侵略戦争に突入するなか、各地の無産者診療所は反戦勢力として弾圧され閉鎖。三七年には全国で、新潟の五泉、葛塚のみとなりました。その後四年を持ちこたえた両診療所も四一年四月、ついに弾圧で閉鎖。八カ月後、日本は太平洋戦争に突入しました。

■新潟水俣病の被害者の救済へ

 「新潟で最後の無産者診療所が続いたのは、農民が守ったから」と話すのは、新潟民医連の小市信事務局長。三三年当時、新潟には全国最多の四五〇人の医療同盟員がいました。小市さんは「農民たちが“俺たちの医者を守れ!”とささえた医療。無差別・平等の中身がそこにあった」と話します。
 その伝統を受け継ぎ五〇年に林医院(後の白山診療所)が、五二年には沼垂(ぬったり)診療所が開設。五三年七月、新潟医療協会(後の勤医協)が設立しました。
 新潟勤医協は、六五年六月の新潟水俣病(別項)の公表直後から、新潟県民主団体水俣病対策会議(後の新潟水俣病共闘会議)の一員として被害者をささえ、新潟水俣病第一次訴訟、第二次訴訟をたたかいました。二〇〇四年の水俣病関西訴訟、最高裁判決後、チラシ配布などによる患者の掘り起こしを行い、〇七年、新潟水俣病阿賀野患者会を結成しました。
 沼垂診療所では現在、関川智子所長が水俣病患者の診療にあたっています。関川さんは二八歳で白山診療所の所長になり、その後、水俣病認定申請を希望する患者の診断を続けてきましたが、次第に認定却下が増え「悔しい思いもたくさんした」といいます。
 水俣病との診断にショックを受ける患者もいました。新潟水俣病の勉強会で「おや、お前さんもかい」と言い合う同郷の患者も目にしました。「それだけ地域や職場での差別や偏見が厳しい。“水俣病といえば沼垂診療所”と言われるけれど、阿賀野川から距離があるから患者は来られる」と関川さんは話します。

■今なお根深い差別と偏見

 水俣病患者に身体の痛み以上に苦痛をもたらしているのが、「補償金ほしさのニセ患者」「うつる」などという差別や偏見です。
 「九分九厘が嘘っぱち。“血統だ”と言う者までいた」と、患者会副会長の立川小三郎さん(七八歳)は怒りをあらわにします。
 立川さんは船頭だった父とともに三歳から阿賀野川上流にあった県営の渡船場へ通い、一八歳から船頭として働きました。新潟水俣病公表以後、乗客の心ない言葉の数々を聞きながら「それでも地域で生きていかなきゃならないから」と手足のしびれをひた隠し定年まで勤めました。
 七〇歳のとき家族に後押しされ新潟勤医協下越病院の集団検診で、水俣病と診断されました。患者会に入りノーモア・ミナマタ第一次新潟訴訟の原告にも加わりました(一一年三月に和解成立)。
 「民医連に救われた。患者会があるから心からの語り合いができる」と患者会副会長の立川小三郎さんは話します。
 一方、地域には根深い差別と偏見が残っています。ある患者宅を訪れた際、立川さんは慌てて連れ出され「申し訳ない! あなたが玄関にいると近所から水俣病だと思われるから」と言われました。「ほんの三年前のこと。配慮が足りなかったと謝り、互いに頭を下げ続けました」。
 「差別をなくすには時間がかかる。子どもたちに正しい資料で原因を教えることが重要」と、語り部活動にも参加しています。

■民医連綱領の実践

 「水俣病は治らないので特別な治療ができず対症療法。それでも患者さんは、長年いっしょにたたかってきた関川先生に話を聞いてもらいたいと通って来る」と話すのは、沼垂診療所の看護師長の山田奈保美さん。同診で勤務して初めて水俣病患者と接した山田さんは、居往歴から魚介類の摂取状況、自覚症状など、時には一時間かけて行う詳細な問診を通じ「看護師として成長する機会を与えてもらった」と言います。
 新潟勤医協では毎年、「新潟水俣病と新潟民医連のとりくみ」をテーマに、三年目職員の制度研修を行っています。
 阿賀野患者会会員への聞き取りや旧昭和電工跡地などの現地視察を実施。毎年、「教科書で学んだ出来事が、身近で起きていたことを実感」「患者さんの話を直接聞き、終わっていないと感じた」「住みやすい地域をつくるために政治にも関心が高まった」などの感想が寄せられます。
 研修を担当する下越病院の松田淳事務次長は、「私が入職する前からずっと続く研修です。先輩たちがつくり引き継いできたこうした“場”がありがたい。水俣病のとりくみは、生活と労働の場から疾病をとらえる民医連綱領の実践。日常的な患者さんとのかかわりに生きる普遍的なものを教えてくれます」と話します。


新潟水俣病
 水俣病が熊本で公式発見されてから9年後の1965年、新潟でも阿賀野川流域で水俣病が発生した。水俣病は、有機水銀(メチル水銀化合物)に汚染された魚介類の反復、継続摂取によって起こる中毒性の全身性疾患。主な症状は手足の感覚障害、運動失調、平衡機能障害、求心性視野狭窄、聴力障害など。母親が妊娠中に取り込み、胎児性水俣病も発生した。
 新潟水俣病の原因は、阿賀野川上流にあった旧昭和電工鹿瀬工場のアセトアルデヒド製造工程で副生されたメチル水銀。処理されないまま阿賀野川へ排出、食物連鎖を通じ川魚に濃縮・蓄積、それを食べた人の体内に取り込まれた。阿賀野川流域の多くの住民は当時、貴重なタンパク源として川魚を食べていた。

(民医連新聞 第1678号 2018年10月15日)

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