医療・看護

2018年11月6日

診察室から 在宅医療のパイオニア

 二〇一八年六月二日、地域医療・在宅医療のパイオニアで、京の「わらじ医者」と呼ばれた早川一光先生が、九四歳で亡くなりました。その一年半前に、京都府保険医協会理事長の垣田さち子先生との対談が、「京都保険医新聞」に載りました。そこには二人がめざす在宅医療と、いま国がすすめている「在宅医療」とは、まるで違うものだと書かれていました。
 私は、一九八三年に京都府立医大を卒業して公衆衛生学教室に入局し、すぐに早川先生が院長をしていた堀川病院で働き始めました。初日のオリエンテーションでは病院の周りの西陣の家々を見学して回りました。西陣は町全体がひとつの工場のようになっています。最初は西陣織をデザインする家、次が糸を繰る家、その次が織機を使って織る家といった具合です。そして、「この人たちが、あなたたちが健康を守っていく人たちです」と教えられました。
 早川先生は、四八年に京都府立医大を卒業し外科に入局しましたが、民主化運動をして大学を追われました。ちょうどその頃、医療に恵まれない西陣の人たちが、「自分たちの健康は自分たちで守る」という住民運動の中、自分たちの診療所をつくろうと医者を探していました。こうした住民が早川先生たちと出会いつくったのが堀川病院の前身の白峰診療所でした。住民が主体の民主的な医療機関として、理事は医療職七人に対し住民が一人多い八人でした。
 その後、感染症から脳卒中の時代となり、七四年に在宅患者の看護をする居宅療養部がつくられました。訪問看護や訪問診療という言葉も、診療報酬もない時代でした。私はその九年後に堀川病院の働きに加わったことになります。
 もっとも、私は数年して消化器内科の勉強のために京都の赤十字病院に移り、その後は、消化器病、肝臓、消化器内視鏡、超音波の専門医として働いてきました。
 二○一七年からは東神戸病院に移り、まだ週に半日ですが、医者となって志した在宅医療を一から修行し直しているところです。
 (水間美宏、兵庫・東神戸病院)

(民医連新聞 第1679号 2018年11月5日)

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