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2019年1月9日

新春対談 漫画家ちばてつやさん 記憶を未来へつないで

文・武田 力(編集部)写真・五味 明憲

 『あしたのジョー』などの名作で知られる漫画家のちばてつやさん(79歳)。新刊『ひねもすのたり日記』には、日々の何気ない暮らしから生まれる感動とともに、終戦後に満州から引き揚げてきた幼少期の思い出が描かれています。「漫画で戦争の語り部に」と話すちばさんと、東京保健生協組合員の太田香奈子さん(37歳)が対談しました。

たくさんの死に遭遇

太田 私は『あしたのジョー』をきっかけに少年漫画を読むようになりました。そのあといろいろな作品を読んだのですが、やっぱり『あしたのジョー』が一番好きで…。
ちば ありがとうございます。でも、あれは50年前の作品ですよ。
太田 私たちの親世代ですよね。夫の父親が好きだったみたいで、実家に全巻揃っていたんです。作品の中のキャラクターが本当に生きて動いているみたいで、私も夢中になって読みました。
ちば あれを描いていた頃はまだ戦後を引きずっていましたね。戦争で心身を傷つけられた人たちがたくさんいました。傷痍軍人も見かけたし、戦場だけでなく東京大空襲などで家族を殺されてトラウマを負った人たちも、当時はほとんどほったらかしでした。
太田 先生の新刊『ひねもすのたり日記』には、戦中から戦後にかけてのさまざまな体験が描写されていますね。
ちば 私は1939年に東京の築地で生まれました。両親の仕事の関係で、終戦当時は満州の奉天(現在は中国の遼寧省瀋陽)にいました。日本への引き揚げ船が来る葫蘆島にたどり着くまでの約1年間は、各地を転々としながら食べ物もほとんど食べられないし、寒い中で着る物も十分になかった。
太田 たくさんの死に遭遇したんですよね。
ちば 幼心に「人間って簡単に死ぬんだな」と実感しました。6歳の私に「てっちゃん、しっかり歩かないと置いてかれちゃうぞ」と言っていたおじいさんが、次の日には起きてこない。引き揚げ船に乗ってやっと日本へ帰れるとなった途端、安心して気がゆるんだのかバタバタと人が亡くなっていく。私の作品では「キャラクターがよく死ぬ」と言われました。悲しませたくて描いているわけではないけれど、生命のはかなさみたいなものがすり込まれちゃっているんですよね。
太田 『あしたのジョー』の中で力石徹が死んだシーンでは、夫も号泣していました。本が涙でボロボロになるくらい。生と死をめぐるテーマがリアルに感じ取れるのも、ちばさんの作品のすごいところです。

満州国 日本軍が占領した満州(中国東北部)を領域とした日本の傀儡国家。日本から約155万人が移住。
日本の敗戦後、住んでいた土地を追われ、日本へ引き揚げる途中でもたくさんの犠牲者が出た。

ちばてつやさん

ちばてつやさん

強くて優しい母

太田 ちばさんの自伝(『屋根うらの絵本かき』)などを読んで、私もちばさんのお母様のような強い母親になりたいと思ったんです。ちばさんは4人兄弟だったんですね。
ちば 私が一番上で終戦当時6歳。下に4歳、2歳、9カ月の弟が3人いました。引き揚げる途中、食糧は足りないし、暴動や略奪も起きるし、危険な状況がたくさんあったんです。「中国人が日本の子どもを欲しがっている。4人もいたら大変だろうし、小さいのを1人ぐらい…」などと言ってくる人もいた。母は「4人とも私が産んだ子だから、全員私が連れて帰ります」って啖呵を切ったんです。
太田 すごいですよね。
ちば 子どもながらに「この母親についていけば大丈夫」と思って、心強かったことを憶えています。引き揚げ船に乗るまでの間、両親が小さな雑貨屋を営んでいた時期がありました。ある時2人のロシア兵がやって来て、売り物のタバコや南京豆、大事な万年筆などをひったくって行ってしまった。母は下の子をおぶって私の手を引き、ロシア兵の駐留する本部に猛然と抗議しに行って、代金と万年筆を回収したこともありました。
太田 本当に「母は強し」ですね。

渦に巻き込まれると脱出できない

ちば 日本社会全体が「戦争は悲惨なものだ。もう2度と繰り返したくない」と骨身にしみたのが、先の戦争体験だったと思うんです。
太田 でも、今の日本の政治や社会の動きを見ていると、その記憶が薄れてきているのではないかと不安に感じることもあります。
ちば 政治家や国民の多くは「戦争しよう」と本気で考えているわけではないでしょう。でも、世界各地に紛争の種があって、それが渦を巻いている。いったんその渦に巻き込まれてしまえば、どんなにエンジンをふかしても脱出できない船のように、どんどん渦の深みにはまっていく。戦争を体験した世代としては、知らないうちに身動きがとれない状態に引っ張り込まれてしまうのが恐いです。
太田 「戦争をしない」「武力を持たない」と決めた憲法9条を改定しようとする動きもあります。
ちば 今の憲法は敗戦後のGHQ(連合国軍総司令部)による占領という特殊な状況下で作られたのは確かでしょう。でも、草案作成には日本人も関わって、いろいろな国の憲法を調べて、当時の最先端の内容をとり入れてできた憲法ですよね。この憲法の下で70年以上、平和を守ってきた。天然記念物や世界遺産と言ってもいいくらい貴重なもので、今になって捨てることはないと思います。
太田 よく分かります。今までせっかく平和を守ってきたのに、憲法を変えて何がしたいのかなって。変えたい理由があるはずで、背景にどんな狙いや思惑があるのか、危機感を感じます。
ちば 「世界の紛争を解決するため」などと言って、アメリカから軍事的な手伝いを要求されることもあるのかもしれない。でも日本は「世界中にもう2度と戦争はしないと誓ったんです。軍事的なことはできないんです」と主張し続けなければいけない。何百万、何千万という人々の犠牲の上に成り立っている憲法なので、これは死守しなくてはいけないと思っています。
太田 ものすごく重い言葉です。

想像力を働かせて

太田 戦争を直接体験した世代がどんどん減って、今は自分で学ぼうとしないと戦争のことを知ることができない時代だと思います。人の話を聴いたり図書館で調べたりして、子どもたちには“勉強ができる”“ご飯が食べられる”“暖かい寝床がある”など、与えられているもののありがたさを分かってほしいな、という気持ちがあります。
ちば テレビでは紛争地の瓦礫は映しても、人が死んでいるところは映さない。瓦礫の下でたくさんの人が死んだり、煙の中でたくさんの人が手足をもがれているという現実は、想像力を働かさなければ見えてこない。親が子どもたちに話して聞かせることで、そういう事実を共有してほしいと思います。
太田 医療生協でボランティア活動をしていてありがたいと思うのは、普段は接点のないような戦争を直接体験した世代の方々と交われることです。いろいろな生き方や人生観に触れることができるし、子どもを連れて行くと子どもにも良い影響があるのではないかと。世代間の継承もしながら、子どもたちが大きくなった時に戦争に巻き込まれない、賢い日本がいいなと思います。
ちば 私もできるだけ伝えていければと思って、漫画を描いたり取材に応じたりしています。

庶民レベルの交流を

太田 ちばさんには漫画を描き続けてほしいですし、ファンとしては作品をずっと読んでいたい。子どもがもう少し大きくなって漫画が理解できるようになってきたら、まずちばさんの作品を読ませたいと思います。
ちば 私の他にも楽しくて感動を与える作品がたくさんありますし、漫画だけでなく小説や歴史書もたくさん読んでほしいですね。本にはいろいろな人の人生が詰まっていて、本を読むのは人と出会うのと一緒ですから。
太田 図書館にも週1回くらいは出かけています。子どもには他人の言葉が耳に入る人になってほしいなと。
ちば 引き揚げの際に仲間とはぐれてしまった私たち家族を、屋根裏部屋にかくまってくれた中国人がいました。私にとっては命の恩人で本当に感謝しています。屋根裏で弟たちのために絵本を描いたことが、私の原点です。今、日本へ来る中国人観光客に日本の印象を聞けば“きれい”“おいしい”“安全”“親切”って言うでしょう。そういう庶民レベルの交流が平和をつくっていくのではないかとも感じています。
太田 今日は本当に貴重なお話をたくさん聴くことができました。ありがとうございました。


ちばてつやさんプロフィル

1939(昭和14)年1月11日、東京・築地で生まれる。
1956年、単行本作品でプロデビュー。1958年「ママのバイオリン」で雑誌連載を始め、1961年「ちかいの魔球」で週刊少年誌にデビュー。
主な作品に「1・2・3と4・5・ロク」「ユキの太陽」「紫電改のタカ」「ハリスの旋風」「みそっかす」「あしたのジョー」「おれは鉄兵」「あした天気になあれ」「のたり松太郎」など。

いつでも元気 2019.1 No.327

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