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2019年5月21日

ハンセン病家族訴訟 国は謝罪を! 家族も差別され続けてきた

 ハンセン病元患者を家族にもつ561人が、国に対して損害賠償と謝罪を求めている裁判は昨年12月に結審し、6月28日に熊本地裁で判決が出る予定です。関東地方で暮らす原告の女性に、裁判にかける思いを聞きました。(長野典右記者)

 私は熊本のいなかの島で生まれました。母は30歳で熊本の菊池恵楓園に強制収容されました。畑仕事をしている時に役場の人が来て、連れて行かれました。父と当時3歳の兄、2歳の私、生後7カ月の妹が家に残されました。乳児であった妹は母が収容されてわずか1カ月で亡くなり、私は未感染児童として鹿児島の星塚敬愛園附属の保育所に数年間預けられました。妹がいたことも、療養所の保育所にいたことも後に知ることになりました。
 小学校入学を機に故郷に帰りましたが、母親がいない生活は惨めで、集落の人は母の療養所入所を知っていたためか、私の家族はのけ者のように扱われていました。村や子どもの行事を私の家だけ教えられないことがよくあり、近所で遊んでくれる友人もいませんでした。私が小学校5年の時、兄がハンセン病を発症し、菊池恵楓園に収容されました。

■母、 兄のことを隠して

 小学校6年の修学旅行の時、母に再会しました。死んだものと思っていたので、私にも母がいたといううれしさ半分と戸惑い半分の感覚でした。それから年に1、2回、恵楓園に通うようになりました。中学1年生の時、母に言われて恵楓園内の診療所で診察を受けました。半身裸で身体検査を受け、とても恥ずかしく惨めな思いをしました。疑問に思い勉強をすると、恵楓園は国がつくったハンセン病施設であること、国が「無らい県運動」を推進し、患者を強制隔離したこと、人に忌み嫌われる病気で、小さい時に誰も遊んでくれなかった理由もわかりました。以来、母と兄のことは隠し通してきました。
 高校を卒業後、母の妹にあたる叔母が関東近県で経営する食品関係の会社に就職しました。故郷に戻ることはない、いやな思い出を捨て去る思いで上京しました。叔母からは、母の発症で叔父の縁談が破談したことや、きょうだいで恵楓園に出向き、母に「死んでくれ」と言ったことなどを聞かされました。しかし、こんな私を雇ってくれた叔母の恩に報いようと働いてきました。
 その後、今の夫に出会い、数年後に結婚の話になりました。意を決し、母と兄がハンセン病患者であることを打ち明けました。夫は理解してくれ、結婚しました。叔母に結婚の報告をすると、お祝いの言葉ではなく、「子どもはつくらないでね」と言われました。
 長男を妊娠した時、体に赤い斑点ができ、ハンセン病の発症を疑い、頭が真っ白になりました。私も子どもを置いて入所するのではないかと不安と恐怖に襲われました。誰にも言わずに東京都内にある療養所・多磨全生園で診察を受けました。次回検査となりましたが、怖くて行けませんでした。幸い、赤い斑点はひきました。

■人生の選択肢を制限

 父の死から20年が経ち、私がハンセン病と向き合えたのは、兄のすすめで家族訴訟のことを知り、原告として参加したためです。何度も熊本地裁に行って傍聴し、人に語れず、隠してきた多くの原告の声を聞きました。私自身も法廷で原告として証言しました。
 2001年5月のらい予防法違憲国家賠償訴訟で、入所者や退所者は勝訴しました。しかし、自分の過去を言える人はわずかで、家族も被害を受け、差別と偏見から誰にも言えない過去を抱え、人生の選択肢を制限されたままです。
 ハンセン病は治る病気です。母が入所する前に治療薬が開発され、世に出ていました。強制隔離は必要なかったのに、怖い病気だと思い込まされました。
 バラバラにされた家族に対し、国は謝罪してほしいです。母は96歳になり、入所して66年が経ちました。「国が家族にも被害を与えたことを裁判所が判断して原告が勝利したよ」と伝えたいです。
 私たちのような辛い思いを誰にもしてほしくないと思います。

(民医連新聞 第1692号 2019年5月20日)

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