民医連新聞

2003年6月2日

「時代」をつなぎ未来へ/青年が探訪する民医連の歴史

病院の65年知り、作った「安井病院物語」

 一九九七年に開設した京都民医連第二中央病院の前身は、安井信雄医師が初代院長を務めた安井病院。一九三七年の 医院開業から六五年の歴史があります。青年職員が病院の歴史と安井院長の初心を受け継ごうと、スライドで「安井病院物語」を作って発表しました。京都民医 連中央病院事件を利用した“民医連攻撃の嵐”が吹き荒れたいっせい地方選挙の直前。描かれた安井信雄の医師として、また市会議員として活動した姿は、スラ イドを観た多くの職員や共同組織の方がたに大きな感動を呼びました。(汐満忍記者) この病院は “フツー” じゃない!
 作成にあたったのは、三角(みすみ)強さん。三年目の事務職員です。この病院に入った当初、いくつかの「不思議」に遭遇しました。
 「ここは、京都民医連第二中央病院なのに、患者さんはみんな『安井さん』て言うんです。職員までが『安井病院』って。しかも入院してきた患者さんが『ま たお世話になるね~』なんて知り合いのところに来たような感じ。院内にいるボランティアさんも不思議な存在でした。職員でもない人が何でこんなに一生懸命 病院のために尽くしてくれるんだろうかって。『この病院はフツーじゃない』って思ってました」。
 ばく然と感じていたのは「ここは強烈に地域にささえられた病院」ということでした。
理由は歴史の中に
 もうひとつ、三角さんがこだわったのは、社保や地域での活動のこと。
 「医療改悪反対や平和を求める運動、協力金集め、これらは僕らが入ったときから病院では『当たり前』のことでした。でも、それは『民医連だから…』だけ では説明できません。また、病院でのいろんな活動には、必ず理由があるはず。安井病院は民医連ができる前からある。民医連に加盟した理由は? 先輩職員 と、とことん話したり、病院の歴史を調べ、一つひとつのことが歴史の中でつくられてきたんだと実感できました」。
 この点にこだわったのは、学生時代を過ごした沖縄での経験からでした。「米軍基地に囲まれた異様な雰囲気のなかで生活しているのに、基地ができる以前の 沖縄を知っている人と、そうではない人では、基地に対する受け止めがまったく違う。同じように、病院の成り立ちを知っている人たちと知らずに入ってきた青 年職員は、その意味の受け止めが違うんです」。
静まりかえった会場
 スライドづくりは、あるベテラン職員から手渡された『安井信雄小伝』を使ってすすめました。しかし、発表まで時間がありません。作成にむけていっしょに 話し合ってきた外来医事課のメンバーも、発表当日はあいにく課の合宿。上演は保険薬局の職員や三角さんの奥さんの手も借り、朗読は、門祐輔院長や原田正司 事務長、友の会役員の方がたがかってでました。
 発表の場は、職員と友の会の合同集会。その様子を原田事務長が語ってくれました。
 「スライドを観ているみんなの表情が違うんです。終わった直後、会場はシーンとして、あちこちからすすり泣きが聞こえてきました。しばらくして、一人の 友の会の会員さんが口を開いたんです。『夫はパラオで戦死。戦後、着の身着のままの生活のなか、はしかの高熱で息絶え絶えの娘を抱え、安井さんは貧乏人の 味方や、という兄の話を頼りに、医院の戸をたたきました…』と。この方は八〇歳で、ぽつり、ぽつりと三〇分かけて、自分と安井病院の出会いから今日までの ことを話したんです」。
 発表したスライドと、友の会員さん自らが語った二つの「安井病院物語」が重なり、会場は感動に包まれました。
民医連攻撃の中で
 「安井病院物語」の上演は、統一地方選挙が目前の時期。「人殺し病院」といった宣伝が、第二中央病院周辺でも激しく行われました。
 「病院周辺で連日の『人殺し』の宣伝です。住民と病院の絆が分断されかかっていました。職員もすさんだ気持ちになったり、がんばりたいが、どうしていい か分からないなど、事件いらい悩み続けていました。でもこの企画は、どんなに激しい攻撃で、病院が苦しい状態にあっても『病院は決して丸裸じゃない』と教 えてくれました。歴史をふりかえり、存在意義をみつめ直すことは、多くの職員と会員に『勇気』を与えてくれました」と原田事務長。
 また、三角さんは言います。
 「地域で友の会員さんは口汚ない民医連攻撃に対して『何言うてるんや!』と抗議しに行くんです。病院のことでやられてるのに、職員が下向いてたりソッポ 向いてて良い訳ないです。だから、安井院長が医師として、京都市初の共産党市会議員となり、亡くなるまでこの地域に尽くしてきたことを、病院のかけがえの ない歴史として真正面から取りあげたかったんです」。

* * *

 「安井病院物語」の波紋は、発表後も職場や地域に広がりました。三角さんは、集会に参加していなかった何人かのベテラン職員からも声をかけられました。
 「『あの当時、自分はこうだった』とかって…。次の発表は六月の日常医療総括会議と友の会総会の場で、さらに多くの職員と、会員さんにみてもらうことに なっています。若い職員やベテラン職員からも『脚本なら得意』『手伝うよ』などと言ってもらっています。前作にこだわらずもっとたくさんの若者でつくりた い」。

三角強さん(30)

(民医連新聞 第1309号 2003年6月2日)

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