民医連新聞

2020年1月7日

被爆国日本の若者から世界に伝えてほしい 戦争は絶対にダメ

 今年、被爆から75年を迎えます。被爆者の平均年齢は81歳を超えました。静岡県に住む藤原キクエさん(93歳)は、直後に被爆者救護活動を行った元日赤看護婦。昨年9月に放送されたNHKのドキュメンタリー番組に登場し、凄惨な記憶の一片を語りました。実は、静岡東部健康友の会員として毎週、患者のお尻ふきに使う布切りのボランティア活動をしている藤原さん。同友の会・事務局の安藤匡希(まさき)さんが話を聞きました。

文・丸山いぶき

藤原キクエさん(93歳)の証言

 1926(大正15)年、現在の長崎県島原市生まれ。数え年で6歳のとき満州事変があり(31年)、その頃からずっと軍国少女でした。私が小学校1年の年から、国語の教科書は「ススメ ススメ ヘイタイススメ」の通称「サクラ読本」(資料)。41年に太平洋戦争開戦(当時15歳)ですから、ずっと戦争でした。
 高等科3年(15歳)のときに、先生のすすめで日赤看護婦になることを決意。日露戦争に参戦した父は、「女でも国のために尽くせる」と喜びました。私も喜び勇んで看護婦養成所(大阪)へ行きました。
 本当は3年間学ぶはずが、戦況悪化で看護婦養成も急務で2年後に卒業。男性と同じように召集令状(赤紙)が来て、佐世保海軍病院へ。45年8月当時は、長崎市から直線距離25kmほどの、橘湾を挟んだ対岸の佐世保海軍病院小浜分院に配属されていました。今でいうリハビリ病院で、負傷した兵士を治療して、また戦地に送っていました。「よかったね」なんて言って、罪な話ですよね。

今も、あの長崎の情景が浮かぶ

■あの日、あの空の下で

 8月9日、海の向こうの長崎市の方から「ドドドドォーッ」とものすごい音が響きました。しばらくするとキノコ雲ができ、どんどん上へあがり、日食のように太陽を遮りました。暑く晴れた良い天気でしたが、真っ暗になりました。長崎で被爆し、その年のうちに亡くなった人は7万人と言われています。
 即死せず避難できた人はトラックで諫早(いさはや)まで運ばれ、そこから小浜分院まで歩いて来た人も何人もいました。髪も服もボロボロで、履くものもなく足は血だらけでした。
 私はその後、諫早海軍病院で被爆者救護に当たりました。患者はベッドはおろか病室にも収容しきれず、廊下にムシロを敷いて寝かせました。次から次へ運ばれ、しまいに医薬品やガーゼ、包帯もなくなりました。

■喉が渇くたび思い出す

 患者の間を縫って見回ると、声を出せない人は白衣の裾を引っ張り、恨めしそうな目で「何とかして」と訴えてきました。
 当時長崎には朝鮮の人が多く、「アイゴーアイゴー」という、いかにも悲しそうな声が…(涙で言葉に詰まる)。意味もわかりませんでしたが、今も耳に残っています。「看護婦さん、お水ください」という声も忘れられません。もう助からないのならたっぷりあげれば良かったのに…(言葉に詰まる)。
 亡くなった人を運ぶ死体室は毎日、収容しきれないほど。夏だから膿や血の臭いにハエがたかり、目や鼻、口、傷口からウジ虫がゴロゴロ湧いて出ました。患者もみんな同じ状態で取ってあげられる数じゃない。中には「ウジ虫が血や膿を吸ってくれて痛がゆく、かえって気持ちいいです」という患者もいました。つらかったでしょうね。
 遺体は、名前も住所も性別すらわからず、記録することもなく大八車で運び出し、近くの校庭で山積みにして焼きました。考えられませんよね! 臭いと煙が病院まで届いていました。

* * *

 水をあげなかったことが心残りです。喉が渇くと「申し訳ない」と思い出します。玄関先に雨水を溜めている水瓶を見ては、顔を突っ込み亡くなっていた人を思い出します。台所に立ち水仕事をする時も。なんであんな戦争をしたんでしょう。

対談 「身をもって知った教育の怖さ」(藤原) 「子どものための平和を」(安藤)

安藤 静岡に来たのはいつですか? 友の会に入ったのはどうしてですか?

藤原 51年に結婚し、こちらへ。被爆者健診で三島共立病院とかかわり、青春時代に染みついた日赤の奉仕の精神から、友の会のボランティア活動に参加するようになりました。もう十数年の付き合いです。

安藤 当時を語ることについては、どんなお気持ちですか?

藤原 知ってほしい、話さなければ、という責任感はあるんです。でも、あの頃のままの情景が浮かんで、言葉より先に涙で話せなくなります。でもこれは知っていてもらいたい。「焼き場の少年」など、原爆被害の象徴的な写真も絵も、ほんの一部でしかないんです。当時は、どこを向いても同じ光景でした。

安藤 戦後は養護教諭になったと聞きましたが、戦中、戦後の教育の違いは? 今の道徳の教科化を、どう思いますか?

藤原 養護教諭も恩師のすすめでした。終戦翌年から5年間、母校の小学校に勤務。当時は不衛生で、トラコーマなどが流行りました。静岡に移り住み、長女が小学1年生のときに、再び養護教諭になりました。
 戦後、教育はガラッと変わりました。特に体育の授業が全然違います。私たちの頃は軍隊式で竹槍訓練もしました。養護教育も国のためから、個人とその環境のための健康と予防に変わったんでしょうね。
 道徳の教科化はどうやって成績をつけるんだ、と思います。私たちの頃は修身科が重視されていて、私は今も教育勅語と軍人勅語を途中まで言えます。教育って怖いですね。身をもって知りましたから、学校教育は大事とつくづく思います。

安藤 今の首相は憲法を変えたがっていますが、どう思いますか? 唯一の戦争被爆国、日本の若者に、世界に向けてアピールしてほしいことは? 民医連職員にメッセージをください。

藤原 憲法は変える必要ないよね。私は、なんでもかんでもアメリカ式なのが気にくわない。被爆国なのに核の傘にしがみついて、核兵器禁止条約を批准しないなんて許せません。今の首相は口だけでヘナチョコです! 若い人から世界に伝えてほしいことは「戦争は絶対にダメ」。外国の人だって人間と人間、必ず話し合える。そうすれば戦争になんてならない。若い人は何事にも自信を持ってください。

■親として実感した

安藤(取材を終えて) 被爆当時すでに看護師として働いていた藤原さんの話は貴重。もっと多くの人に聞いてほしいです。「写真も絵もほんの一部」という言葉は、当時を知る上で重要です。何度も声を詰まらせ語る姿から伝わること、本人から聞くことでしか感じられないことがありました。
 藤原さんは、「人間は100年も経つと、過ちをくり返すのかな。戦争の足音が聞こえるよう…」とも話していました。僕には3歳の娘がいます。戦中のような教育は絶対に受けさせたくない。何度も聞いてきた「子どものために平和な世の中を残したい」という言葉を、親になりあらためて実感しています。


資料  小学1年生の教科書の変遷

●1918(大正7)年~
「尋常小学国語読本」:通称「ハナ・ハト読本」。童話・童謡の文学教材、外国紹介や外国人主人公など、国際的視野に立った教材が多い。
●1933(昭和8)年~
「小学国語読本」:通称「サクラ読本」。軍事教材、「神武天皇」など神話・古典教材を採用。忠君愛国的な軍国主義教科書を予感させる。
●1941(昭和16)年~
「ヨミカタ 一、二」:通称「アサヒ読本」。同年に国民学校令公布。教育目的は「皇国民の練成」。極めて軍国主義的色彩の濃い教科書。
●1946(昭和21)年
敗戦直後、連合国軍の占領下で、軍国主義、神道教材に対し、墨ぬりなど削除を指示。

(民医連新聞 第1707号 2020年1月6日)

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