民医連新聞

2003年7月7日

「時代」をつなぎ未来へ 青年が探訪する民医連の歴史

 加害企業の城下町で -新潟 水俣病患者をささえて

 「水俣病」は新潟でも発生していました。新潟民医連の職員たちは被害患者をささえ、訴訟をささえてきました。その中の一人、関川智子医師(61)に幸田尚子さん(23)と宮野大(23)さんがききました。

幸田 沼垂(ぬったり)診療所から公害の発生地域まではけっこう距離がありますよね。新潟民医連は新潟水俣病にどうして関わりをもったのでしょう?

関川 一九六四年六月に起きた新潟地震のおり、阿賀野川下流地域で救援活動を行いました。その秋~冬に被災地域の人たちから「変な病気がある」と、聞き、水俣病患者の存在を知ることになったようです。
 一九六五年一月になって新潟大学が密かに患者発生状況を調べはじめました。住民の症状や、その髪の毛に高濃度の水銀が含まれていたことなどから、有機水 銀中毒症と診断されていたのです。原因はメチル水銀に汚染された川魚を周辺住民が食べていたことでした。当時は「農薬か川魚か、原因は不明」とされていま した。
 公表は一九六五年六月でした。当時、私は新潟大学の医学生で、公表前日、「他言は許さないが、新潟に水俣病患者がいる」と講義中に突然教授が口を開いたので知りました。

関川 七月に入ると新潟民医連は他団体といっしょに、公害発生の原因追求と被害者救援に乗り出していま した。一七団体と県評がオブザーバー参加し「新潟県民主団体水俣会議(民水対)」を結成、新潟水俣病被災者の会といっしょにたたかいをはじめました(のち に「新潟水俣病共闘会議」)。事務所は沼垂診療所に置き、事務局長は小林懋(つとむ)診療所事務長がつとめました。
 当時、水俣病は住民に知らされていませんでした。新潟勤医協の職員たちは現地に入って聞き取り調査をし、その記事を載せた機関紙二〇〇〇部を阿賀野川沿岸地域に配って知らせました。

宮野 水銀の被害を熊本の水俣病で知りながら、工場廃液を垂れ流し、川を水銀で汚染したのは昭和電工だったそうですね。でも、地域はそ
の企業城下町で裁判を起こすのはたいへんだったときいていますが?

関川 昭和電工は三木首相や皇室とも親戚にあたる企業です。死者二七六人、被害者一〇〇〇人と言われる 規模の被害が出ても「刃向かえない」と考えた被害者がたくさんいました。職員にも「裁判は無理」と思う人が多くいたほど。でも、息子を亡くした父親が最初 に決意し、昭和電工に反省の姿勢が少しもないことが分かるにつれ、被害者らはたたかう決意を固めました。

 一九六七年、昭和電工を被告とする新潟水俣病第一次訴訟が新潟地裁に起こされました。新潟水俣病認定患者が、自分たちの体を蝕んだ原因の特定を求めた裁判でした。一九七一年九月二九日、昭和電工の加害責任を認める判決が出され、患者が勝ちました。

幸田 関川先生と新潟水俣病とのかかわりは? 

関川 第一次訴訟の勝利後です。沼垂診療所が認定申請を求める患者であふれ、別の診療所にいた私にも手伝ってほしい、と声がかかったことが最初です。
 当初は申請した人のほとんどが水俣病と認定されましたが、石油ショック以降、認定されない人が増加。国が公害救済の予算を削ったからです。中には「家族 で同じものを食べているのに、おじいちゃんだけ認定され、おばあちゃんは認定されない」といったことまでありました。

宮野 当時の地域の状況はどんなふうでしたか?

関川 水俣病は、被害者の命や健康を奪うだけではありませんでした。心ない差別や中傷、いやがらせがあ りました。病気が水銀中毒によるものだとわかってからも、仕事をクビにされたり、縁談や就職差別まで。「おまえ嘘ついてんじゃないか?」とニセ患者のうた がいまでかけられました。被害者たちは国を相手に、救済を求める第二次訴訟を起こさなければいけなくなりました。二二〇人の職員が土日や勤務を終えてから 未認定患者さん宅を訪問し、四三六人の面接調査をしました。「何とかしてほしい」と助けを求める声は強かったです。

 八二年六月二一日、第二次訴訟を提起。ねらいは第一陣原告九四人が水俣病患者であることを明確にする、熊 本での水俣病発生の教訓を生かさず、第二の被害を起こした国に責任を償わせることにありました。九二年三月の判決は九一人(提訴後、行政認定をされた三人 を除く)中、八八人を水俣病に認定するも、国の責任は認めませんでした。東京高裁に控訴、裁判は長期化しました。そして、九五年、昭和電工との自主交渉に よる解決協定を締結。最初の訴訟から一三年を経ての和解でした。

 でも、第二次訴訟には色いろな障害があったのよ。水俣病患者に最初から関わってきた医師の退職や第一発見者の椿 教授(新潟大)が態度を豹変させ、国の言いなりに発言するようになったこと、私たちと協力して被害者救済にとりくんでいた新潟大学の白川教授には「水俣病 患者のカルテを見せるな」と、県が大学当局に圧力をかけ、あげくの果てに彼に他県への転勤をすすめるなど。そんな中でも多くの患者さんが私たちに「診てほ しい」と言ってくれました。

幸田 全国の支援も大きかったと聞いていますが…

関川 そうです。全日本民医連の総会で新潟水俣病への支援を呼びかけると、カンパだけでなく、昭和電工の工場実地検証にも全国から仲間がたくさん来てくれました。
 また、二次訴訟では法廷で証言に立つことになった私をバックアップしてくれました。熊本の水俣協立病院の藤野糺(ただし)医師をはじめ岩手・川久保病院 の眼科医、川崎協同病院の整形外科医など…五人の医師たちが泊まり込みで水俣病患者さんを診察し、証言の準備をしたんです。そのかいあって、裁判では大学 の審査会資料より私たちの診断書が認められました。

関川 でも、いまも国の責任と真相究明を求めるたたかいは続いています。水俣病も運動も終わっていません。新入職員の皆さんは秋の後期研修で新潟水俣病の現地調査をするそうね。がんばって。

二人 ありがとうございました。


水俣病…メチル水銀化合物に汚染された魚介類を長期にわたり多く食べることで起きる神経系疾 患。化学工場の排水に含まれたメチル水銀が海や川に流出し、魚などに蓄積。毒性の強いメチル水銀は、血液から脳に運ばれ、人体に著しい障害を与えた。また 妊娠中の母親がメチル水銀を体内にとりこみ、胎児の脳が障害を受け、胎児性水俣病が発生した。主な症状は、手足の感覚障害や、運動失調、平衡機能障害、求 心性視野狭窄、聴力障害など。最初の患者発生は1956年、熊本県・チッソ水俣工場の排液が水俣湾を汚染したことによる。そのため、「水俣病」という病名 に。

(民医連新聞 第1311号 2003年7月7日)

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